巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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悪党紳士   (明進堂刊より)(転載禁止)

ボアゴベ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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悪党紳士        涙香小史 訳

               第三十九回

 お蓮は何事も、唯有浦を相談柱としている身なので、三、四日有浦が来ない事に心を痛め、鶴女を連れて馬車を雇い、有浦の宿に行って、取次ぎの者に其の旨を言い入ると、取次ぎは愛想も無く、
 「有浦さんはお留守です。」
 (蓮)行く先は分かりませんか。

 (取次ぎ)分かりません。四日か五日ほど前に、朝の五時頃、周章(あわて)て此の家をお出なさって、夫切(それき)り今に帰りません。若し明日、明後日の中に何の沙汰も無ければ、一週間に成りますから、宿屋の規則に由り逃亡の届けを出します。
と聞いて、お蓮は驚いたが、問い返しても無駄なので、其の儘(まま)此の宿を立ち去って、又も馬車に乗ったが、有浦の事が未だ合点が行かないので、唯伏し俯(うつむ)いて考えるばかり。御者にさえ行く先も告げないので、鶴女は傍から、

 「奥様、之から何方(どちら)へ参ります。」
 お蓮は初めて気が附いた様に、
 「アア、爾(そう)さネ。」
と言って暫(しばら)く考え、
 「伊太利(イタリア)村へ帰りましょう。」
と云った。
 (鶴)デモ貴方、蘭樽様の所に寄り、一寸伺えば分かりましょう。
 (蓮)イエ、夫れには及びません。

 (鶴)アレ貴方。蘭樽様と言うと、又其様(そんな)に愛想の無い事を。別に回り道にもなりませんから、一寸と利門町までお寄り遊ばせ。貴方がお嫌なら私ばかり馬車から降りて、蘭樽様にお目に掛ります。
と云ったが、お蓮は打ち鬱(ふさ)ぐばかりで返事なし。

 御者は此の言葉を聞き微(かす)ったか、御者台から後ろを向き、
 「利門町へ遣るのですか。」
 鶴女は独断で、
 「ハイ、彼所(あすこ)へ寄せてお呉れ」
と命じた。頓(やが)て一走りで蘭樽家の前へ尽いたので、鶴女は先ず降りて、入り口へと進んだが、何事があったのか忽ち驚き、振り向いて、

 「奥様大変ですよ。早く降りて入(い)らっしゃい。」
と云うので、鬱(ふさ)がるお蓮も、何事かと降り立って、其の入り口に行って見ると、其の戸は堅く閉まっていて、其の上を警察署の張り紙で封じてあった。お蓮はそれ程驚きもせず、鶴女向って、
 「這般(そん)な事だと思ったサ。早く帰りましょう。」
 (鶴)でも貴方、未だ何うしたのか分から無いのに。」
 (蓮)イエ、分かって居るよ。家内残らず警察へ拘引されたのだワネ。

 (鶴)だって蘭樽様に限って。その様な筈は。
 (蓮)イヤ蘭樽だからその様な事も有るのだ。帰りましょう。
と云ったが、鶴女は聞き入れず、 
 「イエ、訳も分から無い中に、お帰りなさる事は有りません。、屹度何かの間違いですから、私はよく聞き糺(ただ)して、事に由れば、蘭樽様の証人にもなって上げます。
 (蓮)何をお言いだ。女の癖にその様な。
 (鶴)イエ、夫(それ)でも貴方。爾(そう)です、此の当たりに知った者が有りますから、私は一寸様子を聞いて来ます。貴方は馬車の中でお待ち下さい。

 (蓮)夫では何とでもお前の気に済むようにお仕なさい。だが私は気分が悪いから一人先に帰ります。
 (鶴)夫なら
と言って鶴女は一人いずれかへ立ち去った。
 お蓮は一人馬車に乗り、伊太利村へ帰って行った。

 そもそもお蓮が何故に、この様に蘭樽を嫌うのかと言うと、お蓮は初めて蘭樽に逢った時、その声を聞いて、身の震える程に驚いた。蘭樽が何と無く先頃、お蓮が林屋お民の家で、妹李(まりい)夫人が殺されるのを見た時、背後よりお蓮の目を隠して、お蓮に恐ろしい誓ひを立てさせて、お蓮の口唇(くちびる)を封じた曲者の声に、能(よ)く似る所があったからだ。

 素よりその時の曲者は、勉めて声を変えて居たのに相違ないけれど、変えた裡(うち)にも充分に変わり切ら無い所があり、お蓮の耳の底には歴々(ありあり)と残って居た此の声の為め、既に蘭樽を嫌う心が生じていたのだ。その上、其の小指を見ると、非常に肉厚い指輪を嵌めていた。

 彼の曲者も小指に太い指輪があって、お蓮の首筋手先などを握る度、其の指輪丈がヒヤリヒヤリと感じた事は、お蓮が今なお覚えて居る所である。この様な事から、お蓮は初めて蘭樽に逢った時、云うに云われ無い恐れを感じたけれど、更に能(よ)く見ると、其の人品の賎(いや)し無い事と言い、更には有浦の勧めと云い、又我が娘の恩人と云い、よもや此の人が、入山鐘堂だと言う事は無いだろう。

 個れは必ず我が過ちに違いないと、こう思い直して、持遇寓(もてなし)ていたが、彼が忽(たちま)ち三、四日訪れて来無い事と為ってから、又も其の疑いが立ち返り、今までの事を考えて見ると、彼がお仙を救った時から、曲者が全く影を隠した事と云い、彼れは裕福な貴族だと云うのに、身分に似合わず、お仙を慕うことなど、疑いを以って見る時には、怪しい節ばかり多いので、終には又も彼を嫌い、且つ恐れるの念を起こし、あれこれ思案する中、今又警察署の張り紙を見たので、この上は疑う所は無い。彼は全く入山鐘堂であるのに違いないと、思い定まるに至った。

 しかしながら、この様に思い定めると共に、又一層の苦労と云うのは、我が心が弱い為、彼悪人に口を封じられ、有浦にさえ、告げる可き事を告げる事が出来ずに、友を欺(あざむ)き、我が身を欺くに均しい所業を為し、更には親の身として最愛(いとし)の我が娘を、悪人の手に渡そうとした事など、此れを思い彼を思うと、今更に我が心が嫌でしょうが無い。

 我が身の上の恐ろしさ、娘の上の不敏さ、交(こもごも)心に浮かんで来て、平安な心と言ったら少しも無いので、馬車が我が家に着くと同時に、非常に青い顔色で傍目(わきめ)も振らず我が部屋に歩み入り、其の儘(まま)長椅子に身を投げ掛け、声を忍んで泣いて居た。
 こうしているうちに、傳母(うば)の鶴女が帰って来て、入り口から、

 「奥様、大変な事になりました。」
と声を掛けたので、お蓮は泣き顔を隠すこともせず、
 「イエ、もう其の事なら聞くには及ばない。気分が悪いから彼方へ行ってお呉れ。」
と云ったが、鶴女は余りの驚きに、お蓮の言葉は耳に入らず、其の儘(まま)傍(そば)に進んで来て、

 「イエ、先ず斯(こ)うなんです、蘭樽様ハネ、四、五日前の朝、誰かと屋敷の中で決闘しましたとサ、夫で相手の名も確かに分かりませんが、何でも一人は死んだ相で、死体と共に一同警察へ引かれたと申します。決闘は決闘でも家の中で闘ったのだから、決闘には成りませんとサ。人殺しの罪に落ちますとサ。ですから、若し蘭樽様が負けたのなら、有浦さんは人殺し、又有浦さんが負けたのなら蘭樽様は人殺し。何方(いづれ)にしても御両人とも助から無いと思いますワ。」

 鶴女は近辺の噂を聞いて来てこの様に云う者なので、有浦を蘭樽の相手だと思うのは、無理も無い推量である。此の知らせには、お蓮も驚き、
 「ナニ、有浦が決闘したと。」
 (鶴)ハイ、決闘して一人は殺され、一人は人殺しの罪に落ちたと申します。ですから何うせ有浦さんも蘭樽様も、当分はお目に掛る事はできません。お蓮が私(ひそかに)思には、有浦は軍人なので、よもや蘭樽に殺される事も無いだろうが、人殺しの罪に落ちては、助かることは難かしい。

 力と頼む有浦に、この様な事が有っては、此の後をどのようにしたら好いだろうと、暫しは呆れて言葉さえ無かったが、我知らず声を放ち、
 「もう本当に生きて居る甲斐も無い。」
と言いながら俯伏(うっぷし)た儘(まま)で、気絶した様になったのは、癪(しゃく)とやら言う発病に違い無い。


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