巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ作   黒岩涙香、丸亭素人 共訳  トシ 口語訳

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美人の獄   黒岩涙香、丸亭素人 共訳 

           第十六回

 清き雪子の顔を見、清き雪子の声を聞いたら、誰か又雪子を恐ろしい罪人と思うだろう。雪子の顔は曇りもない玉の様だ。その心の総てがその顔に現れて来ている。一度顔を眺めた時には、心の奥までも一目に透き通るかと怪しまれる。この透き通った雪子の心、何処にその罪を隠す事が出来ようか。

 清き玉には、一点の泡が有ったなら、その泡は忽(たちま)ち表面に映って来るだろう。雪子の心に少しでも汚れが有ったなら、また是はその顔に現れて来るに違い無い。雪子の顔は唯心の中に在る恐れと悲しみとを映し出しているだけ。一点の汚れ、一点の罪をも映して居ない。

 法官は何故にこの様に曇りない雪子を捕らえ、罪人として糺問(きゅうもん)を加えるのだろう。しかしながら、雪子の顔を見ずに、その証拠のみを聞く時は、雪子に罪がある事は、火を見るより明らかである。三歳の小児でも雪子を罪人であると認めるだろう。

 弁護人服部勤は、唯雪子の顔の美しさを見、唯その声の麗(うるわ)しきを聞き、先ず我が心をその顔とその声に奪われたことから、この事件をば例の無いほどに、難しい裁判と思っているところだ。

 雪子も人である。その顔が美しいと雖(いえども)も、罪を犯さないとは限らないだろう。罪ある者を、罪無しと思い詰めて考えるが故に、難しく思われるのだ。有罪の証拠ばかりで、無罪の証拠が少しも無いのに、その中から無罪の証拠を求めようとするのだから、それが難しいのは当然の事なのだ。

 金の無い山に金を堀って、掘れども金が出ないのを怪しむのは、無理では無いのか。罪ある人の身について、罪の無い証拠を捜そうとは、金の無い山に金を掘ることなのだ。幾日を費やすとも、終にはその功無くして終るだろう。アア雪子は有罪である。有罪の証拠は備わって余りある。無罪と認める事が出来る理由は何処に在るのだろう。

 この様な状況なので、この度の検察官は、敢えて無用の弁論を費やさない。静かに立って言葉を開き、
 「法官閣下よ、この事件ほど明瞭な告訴は有りません。欲しいと思うだけの証拠は、悉(ことごと)く集まりました。
 被告雪子は、確かにその夫を殺した事、雪子の外に決して罪人の無い事は一目見て明らかです。」
と説き起こし、先ず雪子が非常にその夫を憎んでいた事を説き、次に当夜の事柄を残らず説明した。説明し終わって唯一言を添え、

 「事実だけでも既にこの通り分かって居ます故、本官は別に言う所は有りません。言わなくても、その罪は分かって居ます。この上は、唯証人の取調べを待つのみで有ります。」
と結んだ。判事はここに於いて、一方から順に証人を呼び出した。

 この証人は、何れも当夜有った事を、その儘(まま)に申し立てるだけで、飾りもせず、隠しもせず、その言う所は、十人一口から出(いで)るかと怪しまれるばかりであった。
 第一に呼び出されたのは、春田如雲である。次は夏川中尉、次は秋谷愛蘭、次は冬村凍烟である。
 何れも当夜の客にして、皆雪子を憐れむ者ではあるが、その言葉の内に、是こそ雪子に罪の無い証拠であると言う事を認めるに足る所は無かった。

 この次には梅林安雅を診察した医師であり、又次は梅林の家に奉公していた侍婢(こしもと)お類を初め、下女下男である。
 最後に呼び出だされたのは、薬種屋の手代で、この者は、何月幾日に梅林雪子に毒薬譽石(よせき)を売り渡した旨を述べ、帳面を取り出して、これに雪子が自ら名前を書き入れた事を示した。是に到って、証拠と言う証拠は揃わないものは無かった。

 今まで雪子の清き顔に心酔し、雪子を罪人では無いと思い詰めていた人々は、忽ち顔の色を変え、
 「アア人は見掛けに寄らない者だ。」
と一様に呟(つぶや)いた。
 検察官は再び立ち上がって、是だけで事実も充分に分かり、証拠も充分に備わりましたが、更に陪審官閣下に向かい注意までに述べて置きます。

 第一に雪子が夫を殺したのは憎しみの心と我が身を自由にしようとの二つに出た事で有ります。梅林安雅が我が身を愛さないと知りながら、無理に雪子を妻にした故、雪子はそれを根に持って、三年の間怨んで居ました。怨んでは居る者の、一旦婚礼した上は離れる事が出来ません。離れるには安雅を殺すの外は無いのです。

 雪子は安雅を厭だ厭だと思う心が募って、終にこの罪を犯しました。その情は憐れむべきでありますが、罪に疑いは有りません。次に注意すべきは、雪子は初め二人の客に珈琲を呑ませ、それから立ち帰って更に一杯を注ぎ、その夫に呑ませた一条です。

 若し間違って毒の有る方を客に呑ませては成らないと思いました故、夫に呑ませる分だけは、別に注いだので有ります。それに又客へ先に呑ませた方が、その夫が安心して呑みまする。即ち安心させて充分に呑ませる為に、先ず二人の客へ毒の無い珈琲を勧めました。

 次に注意すべきは、夫に珈琲を勧めてから、直ちに我が部屋に退いた一条です。四人の客が来て居るのにそれを捨てて退くとは、理由が無くてはなりません。即ちそのまま客間に居ては、気遣う心が顔色にも現われます。素振りにも現れます。その素振り、その顔色を隠す為め、直ちに我が部屋へ退いたのです。

 次に注意すべき事は譽石の事です。梅林の家を隅から隅まで捜索を遂げましたが、譽石を蓄えて居たのは唯雪子一人です。その外の者は誰も毒薬に類似する品すら持って居ません。これで見れば、安雅の呑んだ譽石は即ち雪子の蓄えて居た譽石です。それに雪子の譽石は、雪子自身の化粧箱の中に在り、雪子がその鍵を持って居ます。雪子の外にはその譽石を取る事が出来ません。是だけの事を考えて見れば、別に論ぜずとも分かりましょう。」
と非常に分かり易く説き分けた。
 誰か又雪子を無罪と思う者が有るだろうか。人々は唯弁護人が如何なる事を言うだろうと怪しむばかり。これ程まで明らかに分った上は、雄弁緻密の服部勤も、一言の言い開きも立たないに違い無い。

 雪子は既に、気尽き魂消えて、この世の人とも思われない。
 先程から証人の言い立てを聞き、検察官の言葉を聞いたが、我が身の事なのか自ら判断する力は無かった。恍惚として聞いているばかり。夢か現(うつつ)か、夢に我が身を他人と思って居るかのようだ。我が身と思えば他人。他人と思えば我が身。唯曖昧模糊の境
いを辿(たど)りながらも、心の中で判断を下し、

 「アア検察官の言葉を聞けば、この罪人は雪子に違い無い。何うしても雪子が殺したのだ。爾々(そうそう)検察官の言う通り、何うしても雪子の罪だと分かる。」
 知らずの間に考えながら、偶(ふ)と気が付いて、雪子とは是我が身であるのを悟ると、恐ろしさが忽ち迫って来て、我が身をさえ支えることが難しかった。憐れむべき梅林雪子ーーー、アア。




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