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美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ作   黒岩涙香、丸亭素人 共訳  トシ 口語訳

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美人の獄   黒岩涙香、丸亭素人 共訳 

        第二十三回

 丸子嬢は里波不(リバプール)の太陽館で図らずも病気に悩まされ、その身は新約克(ニューヨーク)に行く事が出来なかった。幸いにして溺死の災いは免れたが、世の人には死人の内に数えられ、最早雪子も丸子も世に亡い人の数に入ったので、嬢の病気が全癒した後は、更に名を漢田蟻子と改め、何処に行くとも心に定めて居なかった。

 唯その時その時心に好むままに足を運び、此処(ここ)に二月、彼処(かしこ)に三月と淋しい田舎を徘徊(さまよ)って、弱り果てた身の保養に努め、春は花を眺めて気を養い、秋は月を観て心を慰め、未だ嬢の貯金が尽きない中は、遊歴にのみ身を寄せていたが、多くも無い貯(たくわ)え金は、限り無い日を支えることは出来ない。

 最早その過半を使い果たして、残り少なくなって来たので、嬢も漸く心細く思い、何か生活の道を求めなければと思い、フランスのパリに行き、瀬安街(せあまち)十五番館に居住して、唱歌と英語の教授を為し、多少の生徒を集めて辛くも生活を営んで居たが、その生徒の中に鷲田呉子嬢と言って、府内に上流の地位を保っている鷲田了州の令嬢があった。

 蟻子嬢の非常に親切な心生(こころばえ)と世にも比類(たぐい)ない容貌(かおかたち)の艶麗(つややか)なのに非常に心を奪われて、我が無二の親友と思い込み、果てはその父母に請い、嬢を我が家に引き取って、家庭の教師に充て、科目の終わった余暇には、娯(たの)しい遊びを事として、何不足なく日を送っていた。

 今は彼の有名な、一時ヨーロッパの人心を激動させた美人の獄の公判を終わってから、早や六年の歳月を経過していた。それで蟻子嬢も殆ど昔日(むかし)の事を打ち忘れて、全く心に病苦、心配を留めなかったので、一旦瘦せ衰いた姿も再び元に回復して、一段と麗(うるわ)しく見受けらる。

 嬢は年齢早や三十に近いけれども、宛(さなが)ら二十歳前後の処女(おとめ)の様だ。或る日鷲田の家に来客があった。蟻子嬢もその夜会の席に招かれ、細く玲麗(うららか)かな美音を発して、一篇の唱歌を唄ったが、その席に連なっていた一同の人は、初めその容貌の美しさに心を動かし、今又音声の並々成らないのを聞き、この世の人とも思われない程に感嘆したが、中でもその日来ていた一人の客人は、心を悩ますこと限り無く、幸い吾身も未だ妻が無いので、是非に迎えて結婚しようと、鷲田夫人にその意を話して、媒介の事を頼み込んだ。

 そもそもこの客人は何人だろうか。英国の貴族有田益美(ますとみ)伯である。年の頃は三十の上、四つ五つを越えていると見えるが、伯の母親は有名な美人で、年幼(わか)い時は英国中にその誉を得た程なので、その血筋である伯もまた、容貌衆(なみ)に勝れて秀美である。

 蟻子嬢も初めの頃は、堅くその縁談を断ったが、日を経て熟々(つくづく)考えてみると、世に婦人(おんな)と生まれて来て、貴族の人の妻と成れば、この上も無い名誉であるばかりか、身に聊(いささ)かの不自由も無く、生涯を非常に安楽に送ることが出来るので、妾身(わがみ)の為に最上の結婚であると思い返し、鷲田夫人の勧めに任せて、目出度く結婚をして、有田伯と共に手を握(と)り合ってパリを出発し、再び英国に帰った時は、美人の獄の公判から既に八年を経過して、雪子夫人、丸子嬢の名は全く世の人の口を去って、更に語り出す者は無くなっていた.

 その年の三月である。
 有田伯の居宅は英国龍動(ロンドン)府の街外(まちはず)れにあり、世に有田塔と評判せられているものなので、その広壮美麗は言うまでも無く、室内の装飾等も悉く精妙を極め、宛(あたか)も国王の宮殿の様であった。嗚呼(ああ)世に薄命であった蟻子夫人も、種々様々の艱難を嘗(な)めて来て、今は有田塔の夫人と仰がれ、夫婦の中は非常に睦まじく、再び楽しみの身の上と成ることが出来た。

 蟻「私の襟飾りの金剛石(ダイヤモンド)が壊れましたのに、丁度今晩は南御殿の夜会が有りますので、是非入用で御座いますが、如何(どう)致しましょう。」
と問うと有田伯は、
 伯「それは勿論お買いなさい。本来なら、私が買って来るのだけれども、今日は生憎(あいにく)他に遁(のが)れ難い用事が有るので・・・・。」

 蟻「イエ、態々(わざわざ)貴方を煩わしはしません。ドウセ妾(わたし)は今日出掛ける序(ついで)が有りますから、その時買って参りましょう。もう程無く十一時で御座いますから、車の仕度を為(さ)せて早速行って参ります。」
と夫人は有田伯に暇を告げ、四方(あたり)を払う程の美しい打紛(いでたち)で光輝く馬車に乗って、市街の方に馳せて行ったが、やがて大通りに差し掛かった時、馬車は雑踏の為に遮られ、容易に進むことが出来なかったので、御者は夫人に相談し、一旦馬車を後ろに引き返して、裏通りに向かおうと、暫らくそのまま留まって居たが、その時側(かたわら)に身成りの賤(いや)しい四十恰好の男子(おとこ)が居た。

 非常に不審気(いぶかしげ)に馬車の中を差覗いて有田夫人の顔を眺め、額を顰(しか)めて独り言、
 男「ハテナ、あれは紛れも無く梅林雪子だ。世間では皆死んだ死んだと言い触らして居るが、決して死んだのでは無い。生きて居る。而もあの通り立派な夫人に成って居る。決して間違いは無い。雪子に違い無い。誰の所に居るんだろう。一つ此処等(ここいら)の人間に尋ねて見よう。」
と小声で言いながら又自分の側に居た男に向かい、

 男「若し、エ、お前さんはあの馬車に乗ってる婦人を知りませんか。あれは何処の夫人(おくさん)で御座いましょうネ。」
 人「あれはお前さん、有田伯の夫人です。あの有名な有田塔のサ。」
と答えたので、件(くだん)の男はそのまま引き返し、足を限りに馬車の跡を追って行った。


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