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美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ作   黒岩涙香、丸亭素人 共訳  トシ 口語訳

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美人の獄   黒岩涙香、丸亭素人 共訳 

            第二十五回

 嗚呼、蟻子夫人は如何なる約束を以ってこの世に生まれて来た婦人なのだろう。この上も無い美人に生まれ、この上も無い薄命に陥り、この上も無い幸福を得、この上も無い愕きと悲しみとに出会った。恨めし気に件の手紙を握り、涙を流して葛西丹助と記した名前を白眼(にら)む姿は、唯憐れと言う外は無い。夫人を梅林雪子と呼び、夫人の顔を見覚えていて、夫人を飽くまで恋い慕い、地球館とか云う、下等の下宿屋に住んで居る葛西丹助と云うのは、夫人が是まで一度も聞いたことの無い名前である。

 英国において、名高い貴族有田益美伯の最愛の夫人は、心ならずもこの様な賤しい人に面会を迫られることとなった。優しい夫人の咽喉は荒々しい下僕の手をもって括(しめくく)られている。夫人は面会する事を決心したのだろうか。又は面会せずに済む様な方法を考え出す事が出来ただろうか。

 夫人「アアー、如何したら好いだろう。」
と夫人は独り泣き叫ぶばかり。この様にして長い時間を過ごし、正午の鐘を聞く頃には、夫人の心は全くこの様に乱れて、却って自暴自棄な心と成り、手紙を握ったまま、座を離れて茶亭を立ち出で、足早にその居間に帰り、思わず姿見鏡(すがたみ)の前に立った時、夫人は唯茫然として、言葉も無かった。

 土の様に変わった顔色に、涙を含む目の中は、如何にも物凄く見えて、我が顔とも思われなかった。今にも夫伯爵が、この部屋に入って来たならば、夫人の姿を見て何と言うだろう。必ず之を怪しむに違いない。その時夫人は何と之を説明したら好いだろうか。

 夫人「もうこうなった以上は、所詮考えても無駄なこと。殺すなら殺せ。」
と諦めて横椅子に身体を抛(な)げ掛け、暫らく眠りに就こうと試みた時、丁度伯爵が入って来た。夫人の顔を見て非常に愕き、
 伯「オヤ、大層顔色が悪いでは無いか。心配事でも有るのか、エ。」
と問われて夫人は益々色を失い、

 夫人「イエ、決して心配事なんかは有りません。」
 伯「無くてその様に顔色が変わる訳が悪い。有れば之れ之れだと打ち明かして言うが好いでは無いか。」
 夫人「決して御座いません。唯今朝、貴方にお別れ申してから、何と無く気持が悪く成りましたので・・・・。」

 伯「何に致せ不快ならば、充分に手当てをしなければ成らない。」
と有田伯は早速侍婢(こしもと)家従を呼び集めて、夫人の手当てに大騒ぎである。この様にして夫人はその混雑と苦心の中にその日はそのまま送り去ったが、未だ手紙の事を思い出されて、心の悩みを去らなかったが、その夜夫人は再び悲しむべき手紙に接した。

 それは何人の手紙であるか。煙草の脂で封筒が汚れた模様と、宛名の筆跡で判断すれば、等しく葛西丹助から送って来たものと知られた。それで夫人は更に一層の愁いを増したが、夫人の側を離れない伯爵に、悟られまいとして、態(わざ)と耐え忍んで色に現さなかった。手紙はそのまま衣嚢(かくし)に納れて、暫らくは開いて見なかった。漸(ようや)く伯爵がこの部屋を立ち去った時を窺(うかが)い、侍婢(めしつかい)を外に遠ざけ、震える手でその封を押し開くと、果たして葛西丹助が重ねて送って来た手紙である。

 「有田夫人よ。貴女は拙者の手紙に対して、一向に返事を送って来ない。又旅館に訪ねても来ない。思うに貴女は、唯何の音沙汰をも為さずして、拙者を誤魔化して終わろうと考いて居るのでしょう。しかし乍(なが)ら、拙者は決して無惨無惨(むざむざ)貴女に誤魔化されて降参はしないでしょう。拙者の秘事には充分な値打ちを持っている。貴女から充分な手当てを受けるのに値している。

 若し貴女が飽くまで平気で取り合わない決心ならば、拙者は貴女の夫である有田益美伯からその手当てを受ける考えです。万一に有田伯も貴女と同じく之を拒んで、拙者の求めを退けるならば、今一つ拙者はその良策を有して居る。拙者はその秘事を綴って一篇の記事と成し、之を新聞紙の持ち主、或は記者に送るでしょう。世間に稀な記事なので、多くの報酬を与える事は請け合いである。

 これ程まで拙者は心を定めているので、是非とも貴女に面会したい。貴女も拙者に逢わなければならない。貴女は新聞紙を開いて、「貴顕の身の上に驚く可き事柄を発見した。」
と題する雑報を読んでも、心に快しと為す事ができるか。貴女と貴女の夫伯爵に対して、試みる所の話し合いが破れて、行われなければ、是非とも貴女は惨(いたま)しい新聞の記事を読まなければ成らないこととなるでしょう。

 貴女が果たして之を読むのを嫌うならば、速やかに拙者と面会して下さい。拙者は本日午後三時を期して、連善公園の五王門に貴女を待っています。その時、それでも未だ貴女がその場所に来なければ、再び拙者が現れ出るだろう場所は、貴女の夫有田伯爵の居間になるでしょう。
                        葛西丹助 」

と認(したた)めてあった。

 蟻子夫人は之を読み了(おわ)って、再び狂気の様になった。もし夫人の身の上の事を、夫伯爵の知る所となっても、少しも差し支え無いとなれば、夫人はそれ程までに、悲しみ驚き迷う事は無いに違い無い。第一之を夫に知らせたく無いと思えばこそ、夫人はこの上もない苦心を重ねているのだ。然るを残忍無慈悲の葛西丹助は之を伯爵に訴えるのみか、果ては新聞紙上に於いて、世間に吹聴するとまでに脅迫している。

 夫人も今は殆ど生きて居る心地もしない。暫しは嘆きに沈んでいたが、やがて思い直して自ら心を励まし、その身の不幸は仕方が無いけれど、せめては手の届く丈、力を尽くして防ぐことこそ、先ず今日の行うべき道なので、私(ひそ)かにこの家を忍び出て、人知れぬ間に、連善公園に赴き、葛西丹助に面会し、その意中を聞き取って、危難を遁(のが)れる謀(はかりごと)を施そうと、独り思案を定めたが、人目の多い有田家を忍び出るのは、夫人にとっては容易ならない仕事である。

 夫伯爵は非常に夫人の不快を心に掛けて、吾身の事をも打ち忘れ、暫らくも夫人の側を離れるのを嫌い、侍婢(めしつかい)、家従の類も又、常に弥増(いやま)して注意しているので、その目を眩(くら)ますのは実に難しい事である。しかしながら夫人は、今は九死に一生の場合に迫られている。

 種種に思いを砕いて策を設けて、夫を外に遣り、侍老、家従に用事を命じて、その側を去らせて、辛くも忍んでその家を立出で、後を見返りながらその身を縮めて門を出、辻馬車を雇って之に潜み、鞭打たせて連善公園に赴き、定めの場所に車を停(とど)め、頻りに四方を見回したが、それと思われる人が見当たらないので、夫人は甚だ不審に耐え兼ね、彼辺此辺(かなたこなた)と探し歩いている時、後ろに荒々しい声がして、

 「有田夫人」
と呼び留めた。



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