巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ作   黒岩涙香、丸亭素人 共訳  トシ 口語訳

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美人の獄   黒岩涙香、丸亭素人 共訳 

            第二十七回

 蟻子夫人は非常に力無く公園地を立ち出で、吾家に帰る道すがら、種々様々に想い惑って、之と言った定まった心も無かった。夫人は如何にして丹助が求める丈の金銭を調達するのだろうか。夫人は夫に事の次第を打ち明けて、その救いを乞うのだろうか。有田伯爵は慈悲深い性質である。人の難儀を見て、救わないで措いた事は無い。とりわけ伯爵が夫人を慈しみ愛することは、世の常では無い。

 全く有田家の宝珠(たま)と尊んで人にも誇り、自分も喜んでいる程なので、今夫人の難儀と聞いたならば、どうして救い助けずに置くだろう。しかしながら、夫人の身に落ち掛かった難儀は、又伯爵の心を襲い、愛想尽かしの種とは成らないだろうか。

 夫人は全く梅林雪子その人にして、一時欧羅巴(ヨーロッパ)中を振動させた「夫毒殺事件」の被告人だった事を知ったならば、伯爵はそれでも未だ夫人を慈しみ愛することが、今までに変わらないだろうか。
 だからと言って伯爵に救いを乞わず、又相談をしなくては、金を調達する道は無いのだ。金を調達せずに、丹助の求めを断ったならば、丹助は自身で伯爵を強請(ゆす)るに違い無い。

 如何に為(し)たらば、穏やかに夫人の難儀を救うことが出来るだろうか。
 これ等の問題が今まで蟻子夫人の心の中で戦いつつ、その日黄昏(くれがた)に吾が家に立ち帰った。その宵、間も無く夫伯爵は帰宅して、夫人の居間に入って来たので、夫人は思い切って伯爵の気を引く為に、
 夫人「妾(わたし)は貴方に折り入って願い度い御無心が御座いますが、聞いて頂けましょうかしら。」
と力を込めて言い出した夫人の言葉を聞いて、伯爵は莞爾(にこり)と笑い、

 伯「改めて頼むにも及ばない事ではないか。普段から言う通り、汝(おまえ)の事なら出来る丈の尽力はして遣(つか)わす考えだ。いったいその無心とは何だか話して御覧。遠慮は無用だから。
 夫人「外の事でも御座いませんが、実はお金が入用なんで・・・・。ケレ共そのお金の高が少し多いので、貴方にお願い申し兼て居りましたが・・・・。」

 伯「ナニ金などの事なら些(ちっ)とも心配はいらない。何でも無い事だ。全体汝(そなた)に小使いとして、碌々金も与えて居ないのだから、不自由も有るだらう。ジャ斯様(こう)しよう。今後は小使いとして、一万円は汝(そなた)に与えることにして、それを二期に分けて、五千円づつ渡しましょう。ソシテ取り敢えず、明朝その五千円を渡そう。それでは未だ不足かえ。」
と言う伯爵の言葉を聞く夫人の心の中はどんなだろう。

 夫人「イエ、如何致しまして。有難う存じます。」
と言いながら座を立って伯爵の腕に縋(すが)り附き、その愛情の深きに感じ入って、思はず涙を流すまでに喜んだ。嗚呼、僅かに二時間を経たない以前まで、夫人の胸に立ち塞がる憂鬱(うやむや)も、伯爵の一言の為に、全く晴れ渡って、夫人は今一度び身に掛かる危難を免れることが出来た。

 今朝ほどまで、有田家一同の心配と混雑を引き起こした、夫人の病亜も何時か全快して、夫人は再び芳しき花の面あ(おもて)に回(かえ)った。それでその夜は快く眠りに就き、翌朝早く起き出して庭の景色を眺めると、露を含んだ薔薇の花も、何時に無く美しく見えて、夫人の目に入るものは皆夫人の心を楽しませた。

 やがて夫伯爵は、五千円の金を携えて来て、夫人に之を与えたので、夫人は家従を銀行に使わし、二千円の手形を作らせて、丹助の口を封ずる用意を整いた。それで定めの日限に再び公園に行き、手形を丹助に渡して置けば、最早や世に懼(おそ)れることは無いはずだ。

 死ぬよりももっと苦しかった、難儀をも容易(たやす)く遁(のが)れることが出来た夫人の心は、その嬉しさが自然と顔に現われて、容貌も一層に麗しく見受けられた。その日は夕方から夫と共に、以前から招きを受けていた、公爵倶蓮寺夫人邸(やしき)に赴こうとして、常にも増して化粧に気を付けた夫人は、尚更艶やか見え、朝夕夫人の傍を離れない侍婢(こしもと)すらも、その美しさに驚いた程なので、今夫人が伯爵と手を提(と)って階段を下りて来るのを待ち受けて、その姿を観(み)るため、馳せ集まった下女下男は、廊下の方に充満した。

 この様にして伯爵は夫人を馬車に導こうとして、この様に階段を下り切った時、何者とも知れないが、玄関の方で大声を発し、頻(しき)りに罵(あざけ)り叫ぶ者があり、非常に騒がしかったので、伯爵は家従を呼び付けて、
 伯「何だ、大層騒がしいが静かにさせろ。」
 家従「イヤ、何でも御座いませんが、今しがた、強く酒に酔った奴が玄関へ遣って参りまして、是非とも奥へ通せと申しますので、今それを制して居ますところです。」

 伯「それじゃ早く追い払って了(しま)うが好い。併し傷は負はせるなよ。」
と主人の命令なので、家従共は寄り集まって、ソット傍(わき)に退けたので、夫人と伯爵はそのまま馬車を飛ばして、倶蓮寺邸に出かけたので、その暴客の何人であるかは更に之を知らなかった。

 だが伯爵夫婦がその夜、十時を過ぎる頃、倶蓮寺邸の舞踏を了(おわ)って、自邸に帰って来て見ると、まだその玄関に、その叫び狂う声が聞こえて騒がしかったので、公爵夫婦も不審でしかたがなかった。馬車の窓から透かして見ると、玄関の敷石に腰打ち掛け、両手を広げて大声で暴(あ)れて居る一人の男を見受けた。


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