巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

bijinnogoku28

美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ作   黒岩涙香、丸亭素人 共訳  トシ 口語訳

since 2015.10.3

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

美人の獄   黒岩涙香、丸亭素人 共訳 

           第二十八回

 傲慢(ごうまん)にも有田家の玄関に座り込み、大声を上げて罵(ののし)り叫ぶ曲者には、家従共も呆気に取られて、一同持て余して居る様子なのを見て、伯爵は首を傾(かし)げ暫らく様子を窺(うかが)っていたが、やがて家従を呼び、
 伯「何事だ、強(ひど)く玄関が騒がしいが・・・・。」
 主人に呼ばれて家従は馳せて来て、

 従「イイエ、何事でも御座いませんが、先程の奴が重ねて那処(あれ)へ参りまして・・・・。」
 伯「先程の奴・・・・・・。フムそれは何者だ。」
 従「貴方が倶蓮寺様へお出ましの時に、玄関に暴れ込もうと致しました奴で御座います。」  
 伯「何う処置する考えだエ。」

 家従「何うも最初、吾々が何程騙(だま)しても賺(すか)しても、更に言う事を聞きませんから、一層縛り上げて警官に引き渡たそうと言う考えで御座いましたが、先程貴方の仰せ付けには、絶対に強(ひど)い取り扱いは為(せ)んようにとのことで御座いましたので、色々に手配りし、ヤット門外に追い出しますと、又直ぐに入って参りまして、丁度唯今が三度目で御座います。最早扱い方が尽きましたので、そのまま打遣(うちゃ)って御座います。」

 伯「何、三度目だと・・・。一体全体用事も無くて濫(みだ)りに暴れ込むとは、不都合千万な奴だ。早速巡査を呼んで引き渡せ。」
と伯爵はやや怒りの意を面(おもて)に顕(あらわ)して命令した。然るに家従は例に無く躊躇して、伯爵の顔を監視(うちみまも)り、容易にその命令に従わないので、伯爵は更に言葉を重ね、

 伯「その者は何と言って入って来たのか。」
 家従「エー、彼が申しますのには、是非共夫人(おくさま)にお目通りが致し度くて参ったから、留守なら待って居ようと、この様に言い張って、吾々が何と申しましても一向に聞き入れません。」
と家従の言葉を聞いて、伯爵は非常に驚き、

 伯「ナニ、蟻子に逢いたいと・・・・。不思議な事を言う奴だナ。」
 家従「ソシテ彼が申しますには、何でも人の生き死に関する程の事だから、夫人(おくさま)に逢わなければ、お邸(やしき)を下がらんと声高く怒鳴りまする。何でも正気では御座りますまいと存じます。」

 伯「実に無礼至極な奴だ。」
と伯爵は手を組んで暫らくは言葉も発しなかったが、その時蟻子夫人は玄関の静まるのを待って、夫と共に馬車の中に座って居たが、不図、星の光に伯爵の顔を透かし見ると、事の外不興の様子なので、夫人は声を和らげ、
 夫人「何かご心配な事が出来ましたので御座いますカ。」
と問うと、伯爵は、

 伯「イエ、決して・・・・。決して心配も何も無い。別けて汝(おまえ)が気を揉む事では無い。」
 夫人「でも、貴方何か・・・・。」
と夫人の言葉が終わらないうちに、一際荒々しく叫ぶ声が聞こえて、
 「雪子・・・・、梅林雪子・・・・。」
と呼ぶ名前は、明らかに夫人の耳を突き徹(とお)した。

 夫人は思わずも、吾が夫の目前のみか、数多の家従、別当、下女、下男の群がっている真ッ正面で、穢れた旧(もと)の名前を呼び立てられたので、目も暗む程に驚き怖(おそ)れ、暫らくは言い出す言葉も無く、瞬きもせず、唯伯爵の顔を打ち眺めた。この時の夫人の心中と、有田伯爵の感情とは如何(どんな)だっただろう。
 夫人は悲しかったか。苦しかったか。又恐ろしかったか。
 悲しさ、苦しさ、恐ろしさは一時に夫人の心中に沸き起こって来ていた。

 伯爵は果たして叫んだ声を聞き分けただろうか。吾が妻の名は蟻子では無くて、実は梅林雪子である事を悟っただろうか。伯爵はその声を聞き取ったには相違なかったが、梅林雪子と言う名を、聞き分けては居なかった。蟻子とはその妻の実名である事を信じて居たが、再び声有って、

 「雪子・・・・。梅林雪子・・・・。」
と叫んだので、伯爵も吾知らず耳を傾け、やや思い入れる様子であったが、やがて笑いながら夫人に向かい、
 伯「あの男は余程気が違って居る様だな。奇妙な奴だ。誰の名前を呼んで居るのだろう。」
と伯爵に声を掛けられた時は、既に夫人は生ける心地も無く、夫の笑いは、夫人の胸を突き通す刃の心地がした。

 気も心も全く転倒して、答える辞(ことば)を知らなかった。唯吾が運命が、最早尽き果てた事を悟っただけだった。綺羅を飾って人の目を驚かした夫人の姿も、急に萎(しお)れ果てて、見る影も無かった。若しこの時が夜では無くて、明らかに夫人の容姿(ようす)を見る事が出来る時だったならば、伯爵は之を見て、きっとその肝を潰したに違い無い。

 黒塗り馬車の中は真っ暗で、外の明かりを入れず、僅かにその窓から差し込む星の光は、夫人の顔色を見分けるには足りなかった。伯爵は良く夫人の心中を推察することが出来なかったので、夫人を家に伴おうとして、馬車の入り口を開き、夫人の手を握(と)り、入って来る瓦斯(ガス)の光で夫人の顔を見ると、夫人は全身を震わせ、顔の色さえ青褪めて、生きている姿とも思われなかったので、伯爵は吃驚(びっくり)し、周章(あわてて)夫人の身体に抱き付いた。



次(第二十九話)へ

a:180 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花