巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ作   黒岩涙香、丸亭素人 共訳  トシ 口語訳

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美人の獄   黒岩涙香、丸亭素人 共訳 

           第二十八回

 傲慢(ごうまん)にも有田家の玄関に座り込み、大声を上げて罵(ののし)り叫ぶ曲者には、家従共も呆気に取られて、一同持て余して居る様子なのを見て、伯爵は首を傾(かし)げ暫らく様子を窺(うかが)っていたが、やがて家従を呼び、
 伯「何事だ、強(ひど)く玄関が騒がしいが・・・・。」
 主人に呼ばれて家従は馳せて来て、

 従「イイエ、何事でも御座いませんが、先程の奴が重ねて那処(あれ)へ参りまして・・・・。」
 伯「先程の奴・・・・・・。フムそれは何者だ。」
 従「貴方が倶蓮寺様へお出ましの時に、玄関に暴れ込もうと致しました奴で御座います。」  
 伯「何う処置する考えだエ。」

 家従「何うも最初、吾々が何程騙(だま)しても賺(すか)しても、更に言う事を聞きませんから、一層縛り上げて警官に引き渡たそうと言う考えで御座いましたが、先程貴方の仰せ付けには、絶対に強(ひど)い取り扱いは為(せ)んようにとのことで御座いましたので、色々に手配りし、ヤット門外に追い出しますと、又直ぐに入って参りまして、丁度唯今が三度目で御座います。最早扱い方が尽きましたので、そのまま打遣(うちゃ)って御座います。」

 伯「何、三度目だと・・・。一体全体用事も無くて濫(みだ)りに暴れ込むとは、不都合千万な奴だ。早速巡査を呼んで引き渡せ。」
と伯爵はやや怒りの意を面(おもて)に顕(あらわ)して命令した。然るに家従は例に無く躊躇して、伯爵の顔を監視(うちみまも)り、容易にその命令に従わないので、伯爵は更に言葉を重ね、

 伯「その者は何と言って入って来たのか。」
 家従「エー、彼が申しますのには、是非共夫人(おくさま)にお目通りが致し度くて参ったから、留守なら待って居ようと、この様に言い張って、吾々が何と申しましても一向に聞き入れません。」
と家従の言葉を聞いて、伯爵は非常に驚き、

 伯「ナニ、蟻子に逢いたいと・・・・。不思議な事を言う奴だナ。」
 家従「ソシテ彼が申しますには、何でも人の生き死に関する程の事だから、夫人(おくさま)に逢わなければ、お邸(やしき)を下がらんと声高く怒鳴りまする。何でも正気では御座りますまいと存じます。」

 伯「実に無礼至極な奴だ。」
と伯爵は手を組んで暫らくは言葉も発しなかったが、その時蟻子夫人は玄関の静まるのを待って、夫と共に馬車の中に座って居たが、不図、星の光に伯爵の顔を透かし見ると、事の外不興の様子なので、夫人は声を和らげ、
 夫人「何かご心配な事が出来ましたので御座いますカ。」
と問うと、伯爵は、

 伯「イエ、決して・・・・。決して心配も何も無い。別けて汝(おまえ)が気を揉む事では無い。」
 夫人「でも、貴方何か・・・・。」
と夫人の言葉が終わらないうちに、一際荒々しく叫ぶ声が聞こえて、
 「雪子・・・・、梅林雪子・・・・。」
と呼ぶ名前は、明らかに夫人の耳を突き徹(とお)した。

 夫人は思わずも、吾が夫の目前のみか、数多の家従、別当、下女、下男の群がっている真ッ正面で、穢れた旧(もと)の名前を呼び立てられたので、目も暗む程に驚き怖(おそ)れ、暫らくは言い出す言葉も無く、瞬きもせず、唯伯爵の顔を打ち眺めた。この時の夫人の心中と、有田伯爵の感情とは如何(どんな)だっただろう。
 夫人は悲しかったか。苦しかったか。又恐ろしかったか。
 悲しさ、苦しさ、恐ろしさは一時に夫人の心中に沸き起こって来ていた。

 伯爵は果たして叫んだ声を聞き分けただろうか。吾が妻の名は蟻子では無くて、実は梅林雪子である事を悟っただろうか。伯爵はその声を聞き取ったには相違なかったが、梅林雪子と言う名を、聞き分けては居なかった。蟻子とはその妻の実名である事を信じて居たが、再び声有って、

 「雪子・・・・。梅林雪子・・・・。」
と叫んだので、伯爵も吾知らず耳を傾け、やや思い入れる様子であったが、やがて笑いながら夫人に向かい、
 伯「あの男は余程気が違って居る様だな。奇妙な奴だ。誰の名前を呼んで居るのだろう。」
と伯爵に声を掛けられた時は、既に夫人は生ける心地も無く、夫の笑いは、夫人の胸を突き通す刃の心地がした。

 気も心も全く転倒して、答える辞(ことば)を知らなかった。唯吾が運命が、最早尽き果てた事を悟っただけだった。綺羅を飾って人の目を驚かした夫人の姿も、急に萎(しお)れ果てて、見る影も無かった。若しこの時が夜では無くて、明らかに夫人の容姿(ようす)を見る事が出来る時だったならば、伯爵は之を見て、きっとその肝を潰したに違い無い。

 黒塗り馬車の中は真っ暗で、外の明かりを入れず、僅かにその窓から差し込む星の光は、夫人の顔色を見分けるには足りなかった。伯爵は良く夫人の心中を推察することが出来なかったので、夫人を家に伴おうとして、馬車の入り口を開き、夫人の手を握(と)り、入って来る瓦斯(ガス)の光で夫人の顔を見ると、夫人は全身を震わせ、顔の色さえ青褪めて、生きている姿とも思われなかったので、伯爵は吃驚(びっくり)し、周章(あわてて)夫人の身体に抱き付いた。



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