巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

bijinnogoku31

美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ作   黒岩涙香、丸亭素人 共訳  トシ 口語訳

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美人の獄   黒岩涙香、丸亭素人 共訳 

            第三十一回

 蟻子夫人は何故にこの部屋に入って来たのだろうか。丹助の強請(ゆすり)を防ぐ為めか。それとも夫伯爵へ言い訳の為か。伯爵は蟻子を愛することが深い為に、まだ丹助の言葉を疑い、唯我等の名誉を口汚く罵り(ののし)り、我等の名誉を傷付けるものとのみ思い込んでいるので、今蟻子が此処へ入って来たのは、丁度伯爵の望みに叶い、丹助が勢い込んで嚇(おど)かす言葉の、尻尾を顕わす可き好い機会(おり)と思われたので、丹助の剣幕に恐れて、吾が胸の辺りに顔を付けて震え戦(わなな)いている蟻子の背(せな)を撫でながら、

 伯「蟻子や、汝(そなた)は此の様な気違いに、恐れると言うことは何うした事だ。決して恐ろしい事は無い。顔を上げてー言言い負かして遣りナ、私は此奴(こやつ)を讒謗律(ひぼうりつ)に充てて、罰して呉れる考えだ。不届き至極な奴だ。英国の爵位を汚した罪は決して軽くは無い。サー蟻子、面と向かって、彼奴(きゃつ)の言う事は皆偽りだと言って降参させて遣りナ。」

 蟻子は漸く顔を上げたが、口に言われない胸の苦しさに、唯恨めし気な目を見張って、丹助の顔を白眼(にら)むばかり。丹助は之を見て嘲笑(あざわら)い、
 丹「アハハハハ、旦那、そりあ駄目、駄目、何で私の言う事が偽りだ。何を言うと言われよう道理が無い。梅林雪子さんはやっぱり梅林雪子さんだもの。ハハハハハ、それよりか私の言う事を聞いて、○的《金》を出して私を追い返した方が上策で御座いましょう。私は貰えば早速にお帰り成さるのだから。外には知った者は無し。私を可愛がるのが一番の上策、上策、ハハハハハ。旦那さん、貴方も余(あんま)り物が分からなさ過ぎますネ。夫人(おく)さんが其様(そんな)事が言える気遣いが無いことを、又私としても一度言い出すからは、女共に言い込められてノコノコ引っ込む様な弱い尻を持って出掛ける丹助では御座いませんテ、サア、サア出して貰いましょう。段々夜も深(ふ)けるから・・・・。」

と聞くに忍びない丹助の悪口雑言に、今は有田伯も堪(こら)え兼ね、蟻子の体を抱き〆めて居た手を振り放して、
 伯「オイ、蟻子、ド・・・・、何うだコレ・・・・・、何うすれば宜(よ)いのだ。」
と怒りを含んで急(せ)き立てた。
 嗚呼、蟻子の運命も早や尽き果ててしまった。蟻子は言い開く言葉があるだろうか。夫伯爵を偽って、自分の身の上を明かさなかったことを白状することは、蟻子に苦しみを与えない筈は無い。若し人間が随意に死することが出来るならば、蟻子は此の場に倒れて、既に亡き人と成り果てたに違い無い。蟻子も今と成っては、隠す方法が無く、涙ながらに決心して、

 蟻「何卒(どうか)お遣(つか)わし成さって下さい。何程か金を呉れて、早う此処を追い出して頂き度う御座います。又再びと参りませんように遠方へお遣りなさって下さいまし。」
と言うばかりで、丹助の言葉に対して、一言の拒みも無かった。蟻子は既に白状したのだ。此の時の蟻子の心中は如何(いか)ばかりだったことだろう。夢中か正気か更に見分け難く、唯泣き狂っている姿が憐れに見えたのみ。

 嗚呼、有田伯が向(さ)きの年日、巴里で思いも掛けない縁(えにし)を結んでから以来(このかた)、世に類無き美人として鍾愛(しょうあい)《特別に可愛がる》し、これ以上無いと言うまで人に誇って、その名誉とまでに思い込んだ蟻子夫人は、丹助の物語と自身の白状で、紛れも無く梅林雪子であることが明白と成った。思い廻らせば、一昔以前、その夫を毒害した悪婦であると世に言い囃された美人雪子は、現在吾最愛の妻である事を認めた有田伯は、その心の中に、愛と怒りと恥と恨みが沸(に)いくり返って、頭髪(かみ)を逆立て、歯を噛(くいしば)り、満面に火を燃やして起き上がったが、再び原(もと)の座に坐り直って丹助に向かい、

 伯「その方は幾等の金を呉れと言うのカ。」
 丹助は勝ちを得顔に、
 丹「ムム、愈々(いよいよ)決心を遂げ為さったのカ。宜(よろ)しい、宜しい。ナニ私は沢山とは申さん。今年は三千円許(ばか)りで宜しい。」
 伯「それは只今その方に遣(つか)わす。呉れては遣(や)ろうが、その以上では英国には置かんぞ。米国へ行くカ。それが承知なら早速遣ろう。」
と聞いて、丹助ハ莞爾(にっこり)と笑い、

 丹「エエ、エエ、参ります。明朝参ります。決して二度とは帰りません。大丈夫です。色々後心配を掛けましたが、今までの事は取り消しに、ヘヘヘヘヘ。」
と、人の痛み悲しみを感じない悪性な丹助は、生まれて以来初めて持つ三千円の金を強請(ゆすり)取り、嬉しさ余って転がりながら有田伯の邸を立ち去ったので、その後に残ったのは有田夫婦である。

 有田伯は尚も蟻子を愛する心が有るか。既に蟻子を憎んでいるか。恨んでいるか。又怒っているか。
 伯爵は飽くまでも蟻子を愛している。蟻子の美しい姿は、伯爵が生涯忘れる事が出来ない所だ。しかしながら、伯爵は英国で一、二を争う程の貴族である。今その夫人たるものが、仮にも夫を毒殺した被告人であると、世間に知られたならば、伯はその家を汚し、その位を恥ずかしめ、その先祖に対する面目は無いだろう。伯が蟻子を愛するの情と伯がその家を思うの心とは、簡単にはその戦いを止めることは出来ないだろう。

 伯爵は思わずホロリと涙を落とし、
 伯「コレ蟻子、汝(おまえ)は確かに雪子であったナ。」



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