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美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ作   黒岩涙香、丸亭素人 共訳  トシ 口語訳

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美人の獄   黒岩涙香、丸亭素人 共訳 

          第三十二回

 有田伯に釘を打たれて蟻子は首を垂れ、
 蟻「ハイ、・・・・誠に申し訳が有りません。貴方を欺(あざむ)きました私の罪は、貴方の御存分に・・・・・。ドウゾ御勝手に御処分遊ばして下さいまし。」
 伯「スリヤ愈々(いよいよ)汝(おまえ)は梅林安雅の妻であったカ・・・・。安雅を毒殺して、罪を以って永の間拘留の苦しみを受け、果ては公判廷で数万人の人の目に曝され、毒婦の汚名を蒙むった梅林雪子に相違無いのだな。漢田蟻子と変名してこの益美(ますとみ)を偽り、婚礼を為(さ)せ、今日が今まで、血統正しい生まれと思わせ、この有田家の権威を穢(けが)させたな・・・。サテ、サテ、浅ましい婦人であったなー。」

と詰(なじ)りつつ、恨めしそうに蟻子を白眼(にら)む伯爵の面(かお)を見て、蟻子の心中は如何なだったろうか。多年姿を変えて諸所を経廻り、身に染み透(とほ)る程の苦労を重ねて、漸く出世の運に向えバ、間も無く毒蛇に見込まれて、その身に受けた昔の穢(けが)れ、氏素性を洗い出され、思い合った夫の気を損(そこ)ね、心にも無い濡れ衣を着て、人を欺く悪婦と見做(みな)され、再び路頭に迷うならば、蟻子は如何にその身を終ることになるだろう。

 世に美人と誉められたのは、その身を刺すための刃であった。何故美人は薄命なのだろう。何故蟻子は不仕合せなのだろう。悲しみ果たして蟻子の姿は、暴雨(あらし)に悩める紫陽花(あじさい)に異なら無い。衰えた顔の色青冷めて、活(い)きて居る人とは思われ無い。潜然(さめざ)め流す涙に声も曇り、

 蟻子「ハイ・・・・・、原(も)とから悪気で明かさなかったのでは有りませんが、唯貴方とケ・・・・結婚が致し度い計(ば)っかりで・・・・・・、実は隠したので、重々恐れ入りました。最早この雪子も命は惜しみませんが、出来ることなら今一度、貴方のお慈悲でこの罪深い私をお許しなされて、傍に置いて下さりませ。若しお聞き入れの無い時は、寧(いっそ)のこと、貴方のお手で殺して下さりませ。」
と決心が見えた蟻子の言葉を聞いて、有田伯も少し声を曇らし、

 有田伯「アア、お前は不仕合わせな婦人だ。許して遣り度いとは如何に心で思って見ても、梅林雪子と聞いたからは、所詮お前をこの家に置くことは出来無い。爵位に対して置かれません。先祖に面目が無い、と言って汝(そなた)が如何に頼んでも、私が手ずから汝(そなた)を殺すことは出来ない。この益美はその様な重罪は犯さない決心だ。最早これまでだと諦めて、充分その身を大切にして、今夜この家を去って貰わなければ成らない。仮令(たと)え・・・。」
と聞くやいなや、打ち伏して居た蟻子は立ち上がり、

 蟻「それでは、愈々(いよいよ)貴方は離縁の御決心で有りますか。」
 伯「可哀相だが仕方が無い。汝(そなた)が有田を名乗るのは只今限り。去っての後は、汝(そなた)の勝手に・・・・。」
と思わずも有田伯が、再びホロリと涙を落とすと蟻子、
 蟻「アア、情け無い・・・・・。」
と叫びながら泣き狂い、跳ね廻わって、暫らく正気では無かった。

 やがて蟻子は気を取り直し、涙ながら有田伯に別れを告げ、打ち萎れてその屋敷を立ち去った時は、夜も早や十時を過ぎ、町外れにある有田邸の四方(あたり)は、人の往来(ゆきき)も途絶えて、空に輝いている月の光は、唯ものすごく気味が悪く感じられた。蟻子は四辺(あたり)がひっそりとして物寂しく、誰一人吾が姿を見る者は無く、又吾が言葉を聞く人も無いので、その身の不幸を訴え、救助(すくい)を求める術も無かった。

 進もうとしては、又踏み止まり、唯天を仰いで太息(といき)を吐(つ)き、
 蟻「アア、この世に婦女として生まれて来て、私程不仕合わせな者が、又とは外に有るだろうか。私程憂き目に出逢った婦女はとても世に一人も居ないだろう。若し有ったならば活きては居ないだろう。自害をするか、苦に病んで死ぬかだろう。活きて居られる道理が無い。

 身に覚えも無い夫殺しの恐ろしい罪を言い掛けられ、牢屋の苦しみを受けた末に、数知れない人の口端に掛かり、その穢(けが)れは今尚消えず、丸子と名を替えれば海で死んだと言い囃(はや)され、ヤッとの事で有田伯と結婚すれば、又丹助と言う悪人に魅入られ、とうとうその家も追い出されるこの始末。アア天帝(てんとう)様にお目は御座いませんか。

 私の命はサラサラ惜しいとは思いませんが、今この蟻子が私の手で命を果たしたならば、昔の夫安雅を殺した罪は、私が着て仕舞わなければ成りません。アア思えば身震いが為(す)る。その証(あかし)が立つまでは、この蟻子の命は捨てられません。死なれません。決して私は死にません。」
と婦女(おんな)ながらに拳(こぶし)を固め、歯を噛み鳴らして恨みを述べた時は、今まで照り輝いていた月の光も、雲に隠れて哀(かな)しんだ。

 嗚呼、不幸の上に不幸を重ね、苦しみの中に哀しみを混じえた美人蟻子は、今から何処(どこ)に身を寄せて、余る命を保って行くのだろうか。死なないとまでに心を定めて、その身の潔白を明かそうと思う蟻子は、梅林安雅を毒殺した真の下手人でないことは、疑うまでもないことだ。

 この末蟻子は、唯聖僧の徒弟と成り、濁らぬ心をもって神を祈り、本当の罪人が現れ出るのを待って、その身を清める一筋の道があるだけなので、蟻子もここに決心して、最寄の寺院に足を急がっせ、聖僧の救いを得て、病院の看護婦となった。

 受け持ちの病室に入り、その病人を打ち見ると、これは一体如何したことだろう。今息を引取ろうとする計(ばか)りの大病人が、寝台の上に目を塞いで臥(ふ)して居た。恐ろしいまでに色青冷めたその顔付きに見覚えが有って、非常に蟻子を打ち驚かせた。

そもそもこの病客は何者なのだろう。



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