巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ作   黒岩涙香、丸亭素人 共訳  トシ 口語訳

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美人の獄   黒岩涙香、丸亭素人 共訳 

              
              第三十三回

 蟻子が驚いたのも無理は無い。この病客は之れ他の人では無い。指折り数えれば、十数年の昔し、蟻子が未だ雪子と呼ばれ、梅林安雅の妻であった時、朝に見、夕べに逢って語り合った知人である。蟻子を深く恋慕い、ある日の梅林の家の中庭にて、断りもなく蟻子の手を握って、淫らな行いに及ぼうとしたのを、蟻子が非常に憤って、その後はこの上も無く忌み嫌い、迂乎(うっかり)も言葉を交わさなかった男なので、その時年齢(とし)も未だ若く、艶やかに黒かった髪の毛も、今は斑白(まだら)に変わり、肉肥えて太かった顔も瘦せ衰えて、頬骨を現すに至っていたけれども、何となく威猛(たくま)しい昔の面影はそのまま目口の辺に残っていて、忘れようとしても忘れ難い人物である。

 誰であるか、何と呼ぶ名前の男であるか。蟻子は見るより早く、直ぐにこれ等を承知したけれど、心の中に秘め置いて、吾から態(わざ)と打ち忘れて、口に言い出さないばかりか、再び思い起さない程なので、素人(そじん)《訳者》も読者も共に暫らくはこの人の姓名を知る手立ては無い。

 恨んでいた蟻子は、側(かたえ)に立てる医師に気兼して、胸を衝(つ)く驚きを顔に現わすまいとして、そのまま椅子に座っていると、医師は蟻子に打ち向かい、
 医師「到底この病人は助かる見込みが無い。晩の潮時には死ぬだろうから、心置きなく病人が好むものを与えて宜(よろ)しい。又その内に見舞いますから、その積もりで万事気を付けて・・・・・・。」

と言い捨てて、医師は病室を立ち去ったので、後に残ったのは、蟻子と半ば死して息も幽(かす)かに寝入っている人だけとなり、市街(まち)を離れた病院は、何時も寂然として物音もせず、唯梢を鳴らす風の音と病に苦しむ患者の叫び声が、時々不気味に聞こえるだけである。

 蟻子も自ずと陰気に誘われて、心ならずも既往(こしかた)の事が思い出され、我知らず落とす涙にその身の不幸を哀しみ、又蟻子を深く恋慕って忌み嫌われるまでに、情けを運んだ知り人に、図らずも此処(ここ)で巡り逢って、半死半生の病気を看護する事の因縁を嘆いては、只管(ひたすら)心に神を祈って、その救助(すく)いを頼むの外は余念もなかった。

 折柄(おりから)病人が何を思ったのか、目を塞いだまま、「雪子、・・・・」と一声叫んだので、蟻子は又も打ち驚き、さては病人が私の顔を見覚えていて、寝幻(うつつ)に事寄せて呼んだのかと思い込んだが、疵(きず)持つ身の僻(ひが)みからであった。

 ハッと急(せ)き立つ胸を撫で下ろして、病人の枕辺に馳せ寄り、
 蟻「若しや私をお呼びでは御座いませんか。」
と問う蟻子の言葉に、病人は目を覚まして、苦しい目を見開き、息も断々(きれぎ)れに声細く、
 「イーエ、オ、お前を呼んだ・・・・のでは無い。・・・アー苦しい・・・・・。死んだ知り人を夢・・・・・に見て・・・・魘(うな)されたので、オ・・・・・思い出した事が有る・・・・・。所詮生き回(かえ)らない私の命・・・・私は最早助からん。死にます。に就いてハナ・・・・、永の年月この腹で隠した私の悪事・・・・。」

と言った時、病人が瘦せ落ちて鋭い目を充分に開いて、蟻子の顔をジロリと見詰めた面相の恐ろしい事と言ったら、中々筆紙に書き尽くせない。その顔を見て、蟻子は余りの怖さに身震いをして、顔を背(そむ)けると、病人は莞爾(にこり)と笑い、

 病「ハハハ、お前は何にも知らない人じゃ・・・・ワ。私は是まで人に語っていないヒ・・・秘事がある。臨終に一事言い残したい。何卒(どう)ぞ、坊さんを一人・・・・呼び寄せて下さい。アー苦しい、ドーゾ早く・・・・、」
と急き立てた。

 アア、人の死する時は、その悪心も善心に立ち返るとか聞く。善に回(かえ)ったこの病人は、生前に如何なる悪事を働いた人なのだろう。今臨終に当たって、如何なる懺悔を為そうとするのだろうか。迎えて来る聖僧の目の辺りで、働いた悪事を言いばら撒(ま)くのに違い無い。この事を聞く蟻子は、心に如何なる感情を起こしただろうか。

 昔梅林家で交際した時には、それ程悪人とも思わなかったが、今死に臨んで懺悔するとは、実に恐ろしい人であったのだなと、震えながらこの部屋を出て、己が師と頼む聖僧を伴って来て、係りの医師と三人で再びその病室に入ると、病人は苦しい顔に笑いを含み、

 病「マ、誠に有難う存知ます。コ、・・・・これで私の物語が出来ます。貴方方は私の懺悔を聞いた・・・・証拠人で御座います。私は兼々(かねが)ね或る人から、悪、あ・・・悪事を懺悔しなければ、死んでも霊魂(たましい)が落ち着かないと聞きました。それ・・・・それ故私は今ここで、」
と暫らく眉を顰(しか)め、胸を押さえて苦しみを耐え、

 病「今ここで悪事を白状致します。き・・・聞いて下さいませ。」
と言い出した病人の言葉に、僧侶は、ハッと枕辺に身を寄せて、非常に懇(ねんご)ろに病人を労わり、
 僧「アア、人の死ぬのは皆寿命だからノ。君とても今死にそうに苦しんでいても、又生き回(か)えることが無いとも言い無い。だが亡ぼし難いのは、身に積み重さねた罪だからノ、君が生前に何れ程の罪を犯していても、今臨終にそれを懺悔すれば、神も満足に思わされて、善心に回えった褒美に、君の罪科は許して下さる。ササ早くその悪事を懺悔しなさい。」

 病「誠にゴ・・・御親切な教訓を受けまして、・・・・之で悪事を白状すれば、サ、サッパリとして死なれます・・・・・。原(も)と私は子供の時にネ、父を失いまして、外に・・・・兄弟も無し、唯(たっ)一人の母親に教育されま・・・イヤもう身の生い立ちは話しますまい。直・・・・直ぐと罪の白状を致しましょう。私は、コ・・・この世の中に生まれて以来(このかた)・・・・、アア思えば身の過ちであった。・・・・私が命を賭(か)けて、賭けてコ・・・恋慕った婦女が一人有りました。ソソその婦人が私の親(ちか)しいト・・・・友達の妻であったのが私の・・・・。」

とまだ病人の言葉の終わらないのに、轟然と室内に響いた物音がしたので、僧侶と医師は驚いて座を立ち、部屋の戸を開いて廊下を見回したが、更に何事も無かったので、再び室に入て来て座を占めようと思ったところ、今驚かした部屋の響きは、その片隅に頭を垂れて病人の懺悔を聞いて居た看護婦蟻子が、思わず倒れた物音であった。

 蟻子は何故に倒れるまでに、気を奪われたのだろうか。病人はこの後如何なる懺悔を為す積もりなのだろうか。



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