巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ作   黒岩涙香、丸亭素人 共訳  トシ 口語訳

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美人の獄   黒岩涙香、丸亭素人  共訳

            第五回

 実に真っ直ぐな真事(まこと)である。幾度か恥じらった後、漸(ようや)く雪子の美しい唇頭(くちびる)から出て来るこの言葉を、服部は一句も洩らさず聞き取って、更に話し出した様子と言い、その事柄の飾りも無く罪も無い所と言い、服部は充分に信じたけれど、これから如何しようか。余り誠しやかに過ぎて、却(かえ)って陪審官に疑われはしないか。却って作り事と思われはしないか。

 譽石が顔の色艶を保存するのに、最も効があることは、今聞くのが初めてでは無い。それに雪子の顔を見ると、実に是、絶世の美人にして、花も羨(うらや)み、月も羞(はず)るかと思われるばかりである。雪子自ら之を保存しようと思ったのも無理では無い。しかしながら、陪審官が若しこの事を信じなければ、真っ直ぐである誠も何の甲斐があるだろう。この様に考えながら服部は、暫(しばら)くの間首を垂れていたが、又突然として顔を挙げ、

 「貴女は譽石を買った事を侍婢(こしもと)お類に話ましたか。」
 雪「イエお類にも誰にも話ません。」
 服部「それは実に残念な事です。若しお類にでも話して有れば、先ず一人証人が出来る訳ですけれど、誰にも話さずに置いたとすれば、化粧の為に買ったと言う証拠が立たなくなります。ナニ私は充分に信じますけれど、裁判所で通るか通らないか。」

 雪「成る程仰(おっしゃ)る通りです。お類にでも話して置けば好(よ)う御座いましたに、何うも、今から考えて見れば、何も彼も私に罪の有る様に指さして居ます。」
 服部「ハイ、実にその通りです。これは貴女が運が悪いと言うものです。併し貴女はお買い入れなさる時に、薬種屋へ本名を知らせましたか。」
 雪「ハイ、薬種屋で帳面を出して来ましたから、自分の名前を書き入れました。」

 服部「ご自分の名前を書き入れたなら、これが一つは幸いです。夫を殺す積もりで毒薬を買う者は、必ず名前を隠す筈ですから。即ち貴女に悪気の無かった証拠だと言い張る事が出来ます。併し貴女が確かに化粧箱へ入れて置いたとすれば、梅林氏の呑んだ譽石とこの譽石とは全く別物ですね。」
 雪「ハイこの譽石がアノ硝盃(コップ)の中へ入る筈は決して有りません。」

 服部「フム実に不思議だ。何うして硝盃(コップ)の中に譽石が有ったか、私には少しも分かりません。」
 雪「ハイ私にはもっと分かりません。」
 服部「下女下男を初めアノ家に住んで居る者の中で、この譽石に手を付ける事の出来る者は有りませんか。」
 雪「イエ有りません。唯私ばかりです。誰も化粧の室(ま)へも入らず、又譽石の有る事を知りません。それに秘密の引き出しは、私より外に鍵を持って居る者は有りません。」

 服部「若し侍婢(こしもと)のお類が、梅林安雅氏を憎んで居る様な事は有りませんか。」
 雪「イエ決して有りません。それにたとえ憎んで居るとしても、お類はアノ室へ入って来ません。珈琲を取り扱ったのは唯私一人ですから、他人が毒を入れる筈も有りません。
 服部「若しや砂糖か牛乳の中へ入って居たとは思いませんか。」

 雪「爾(そう)も思いません。外の客へ薦めたのも、矢張り同じ缶の中に有る牛乳で、砂糖も同じ器の品ですもの。」
 服部「爾(そう)して見ると誰の仕業かもう少しも分かりません。この上は、唯貴女の今までの身の上を聞き、それに由って鑑定を下す外は有りませんが。何か貴女の身の上に、この事件と思い合わされる様な事は有りませんか。」

 雪「少しも有りません。私の身の上は、私が覚えてからの事を申し上げても、極短い者ですもの。云わば野に生えて野に枯れる草の様な者です。何のお話も有りません。」
 服部「でも先(ま)ア貴女の覚えて居る丈の事を、お伺い仕度(したい)ものですが。」
 雪「ハイ、申し上げます。」

 是に於いて雪子はその身の上を語り出した。
  「私はヒルメスと言う所に生まれ、梅林安雅(やすまさ)に嫁入るまでは、その土地を離れた事は有りません。母は私が四歳の時に死にまして、詳しくは覚えていませんが、その時から母の姉(私の伯母)が参って家の事を取り締まり、父と二人で私を育てて呉れました。

 父は医者で有りましたが、若い時から健康が充分で有りませんでしたので、気楽な農業をするのが好いだろうと、生涯安楽に暮らせるだけの財産を拵(こしら)えて、医者を休(や)め、その後は果物や穀物を作って世を送りました。私は十三の歳までは唯音楽読書の稽古をするのと、遊ぶの外に用も無く、野に出ては花を摘み、草の露に顔を洗って、鳥の音に耳を澄ましていましたので、私ほど清く楽しく罪の無い境遇は有りません。

 今でもその時の事を思えば、身が牢屋の中に在ることを忘れ、晴れ渡る日の影に、広々とした野を眺め、蝶を追い、蜜を探(と)る心地がして、暫(しば)らくは我が身までも忘れます。その罪の無い小娘が、今は人殺しの疑いを受け、牢の中にこの様にして居るかと思えば、実に夢かと疑われます。

 私が初めて浮世の悲しみと言う事を知ったのは十三の時でした。その年、父が財産を任せて有る有名な銀行が破産して、父は活計(なりわい)の道を失いました。次第に年は取り、再び医業を開く事は出来ませず、唯一身に農業に励むより外は無く、今まで慰み半分の様にして居た事も、是からは唯一つの命を繋(つな)ぐ綱と為りました。素(もと)より私は浮世と言う事を知らない子供ですから、財産が何うなったか、その様な事は知る筈も有りませんが、唯何となく心細い有様が父の顔と父の様子に現れました。

 是まで何不自由なく世を渡り、父は昼食の後で、一杯のぶどう酒を飲む事に定めて居ましたが、第一にその葡萄酒を廃(よ)しました。次には夕飯の後で、喫(たべ)るウエスキーを廃(よ)しました。父は又、馬に乗るのが好きで、馴れた駒を飼って置きましたが、次には之を廃(よ)しました。又次には日々の新聞紙を廃(よ)しました。この様に自分の慰みを一つづつ減らしながらも、父は溜息一つ発しませず、同じ慈悲深い父で有りました。が顔に見えないその嘆きが身体に見え、父の体は次第に健康を失いました。

 更にこの年は、農家一般に難渋を極めた年で、四月に気候が温かな為、一切の作物に花を持ちましたが、実の結ぶ頃に成って、急に寒さを催し、作物は残らず枯れ、牛馬は流行病で死んでしまいました。私共の一家は洗ったように貧しくなりました。この様な貧しさも私は何とも思いませんが、唯父の苦労な顔を見ると、身を削られる様な思いが致しました。

 是が私の十三の年で、それより十七の年まではこの有様が打ち続き、家は益々貧しく成りました。

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