巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

bijinnogoku5

美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ作   黒岩涙香、丸亭素人 共訳  トシ 口語訳

since 2015.9.10

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

美人の獄   黒岩涙香、丸亭素人  共訳

            第五回

 実に真っ直ぐな真事(まこと)である。幾度か恥じらった後、漸(ようや)く雪子の美しい唇頭(くちびる)から出て来るこの言葉を、服部は一句も洩らさず聞き取って、更に話し出した様子と言い、その事柄の飾りも無く罪も無い所と言い、服部は充分に信じたけれど、これから如何しようか。余り誠しやかに過ぎて、却(かえ)って陪審官に疑われはしないか。却って作り事と思われはしないか。

 譽石が顔の色艶を保存するのに、最も効があることは、今聞くのが初めてでは無い。それに雪子の顔を見ると、実に是、絶世の美人にして、花も羨(うらや)み、月も羞(はず)るかと思われるばかりである。雪子自ら之を保存しようと思ったのも無理では無い。しかしながら、陪審官が若しこの事を信じなければ、真っ直ぐである誠も何の甲斐があるだろう。この様に考えながら服部は、暫(しばら)くの間首を垂れていたが、又突然として顔を挙げ、

 「貴女は譽石を買った事を侍婢(こしもと)お類に話ましたか。」
 雪「イエお類にも誰にも話ません。」
 服部「それは実に残念な事です。若しお類にでも話して有れば、先ず一人証人が出来る訳ですけれど、誰にも話さずに置いたとすれば、化粧の為に買ったと言う証拠が立たなくなります。ナニ私は充分に信じますけれど、裁判所で通るか通らないか。」

 雪「成る程仰(おっしゃ)る通りです。お類にでも話して置けば好(よ)う御座いましたに、何うも、今から考えて見れば、何も彼も私に罪の有る様に指さして居ます。」
 服部「ハイ、実にその通りです。これは貴女が運が悪いと言うものです。併し貴女はお買い入れなさる時に、薬種屋へ本名を知らせましたか。」
 雪「ハイ、薬種屋で帳面を出して来ましたから、自分の名前を書き入れました。」

 服部「ご自分の名前を書き入れたなら、これが一つは幸いです。夫を殺す積もりで毒薬を買う者は、必ず名前を隠す筈ですから。即ち貴女に悪気の無かった証拠だと言い張る事が出来ます。併し貴女が確かに化粧箱へ入れて置いたとすれば、梅林氏の呑んだ譽石とこの譽石とは全く別物ですね。」
 雪「ハイこの譽石がアノ硝盃(コップ)の中へ入る筈は決して有りません。」

 服部「フム実に不思議だ。何うして硝盃(コップ)の中に譽石が有ったか、私には少しも分かりません。」
 雪「ハイ私にはもっと分かりません。」
 服部「下女下男を初めアノ家に住んで居る者の中で、この譽石に手を付ける事の出来る者は有りませんか。」
 雪「イエ有りません。唯私ばかりです。誰も化粧の室(ま)へも入らず、又譽石の有る事を知りません。それに秘密の引き出しは、私より外に鍵を持って居る者は有りません。」

 服部「若し侍婢(こしもと)のお類が、梅林安雅氏を憎んで居る様な事は有りませんか。」
 雪「イエ決して有りません。それにたとえ憎んで居るとしても、お類はアノ室へ入って来ません。珈琲を取り扱ったのは唯私一人ですから、他人が毒を入れる筈も有りません。
 服部「若しや砂糖か牛乳の中へ入って居たとは思いませんか。」

 雪「爾(そう)も思いません。外の客へ薦めたのも、矢張り同じ缶の中に有る牛乳で、砂糖も同じ器の品ですもの。」
 服部「爾(そう)して見ると誰の仕業かもう少しも分かりません。この上は、唯貴女の今までの身の上を聞き、それに由って鑑定を下す外は有りませんが。何か貴女の身の上に、この事件と思い合わされる様な事は有りませんか。」

 雪「少しも有りません。私の身の上は、私が覚えてからの事を申し上げても、極短い者ですもの。云わば野に生えて野に枯れる草の様な者です。何のお話も有りません。」
 服部「でも先(ま)ア貴女の覚えて居る丈の事を、お伺い仕度(したい)ものですが。」
 雪「ハイ、申し上げます。」

 是に於いて雪子はその身の上を語り出した。
  「私はヒルメスと言う所に生まれ、梅林安雅(やすまさ)に嫁入るまでは、その土地を離れた事は有りません。母は私が四歳の時に死にまして、詳しくは覚えていませんが、その時から母の姉(私の伯母)が参って家の事を取り締まり、父と二人で私を育てて呉れました。

 父は医者で有りましたが、若い時から健康が充分で有りませんでしたので、気楽な農業をするのが好いだろうと、生涯安楽に暮らせるだけの財産を拵(こしら)えて、医者を休(や)め、その後は果物や穀物を作って世を送りました。私は十三の歳までは唯音楽読書の稽古をするのと、遊ぶの外に用も無く、野に出ては花を摘み、草の露に顔を洗って、鳥の音に耳を澄ましていましたので、私ほど清く楽しく罪の無い境遇は有りません。

 今でもその時の事を思えば、身が牢屋の中に在ることを忘れ、晴れ渡る日の影に、広々とした野を眺め、蝶を追い、蜜を探(と)る心地がして、暫(しば)らくは我が身までも忘れます。その罪の無い小娘が、今は人殺しの疑いを受け、牢の中にこの様にして居るかと思えば、実に夢かと疑われます。

 私が初めて浮世の悲しみと言う事を知ったのは十三の時でした。その年、父が財産を任せて有る有名な銀行が破産して、父は活計(なりわい)の道を失いました。次第に年は取り、再び医業を開く事は出来ませず、唯一身に農業に励むより外は無く、今まで慰み半分の様にして居た事も、是からは唯一つの命を繋(つな)ぐ綱と為りました。素(もと)より私は浮世と言う事を知らない子供ですから、財産が何うなったか、その様な事は知る筈も有りませんが、唯何となく心細い有様が父の顔と父の様子に現れました。

 是まで何不自由なく世を渡り、父は昼食の後で、一杯のぶどう酒を飲む事に定めて居ましたが、第一にその葡萄酒を廃(よ)しました。次には夕飯の後で、喫(たべ)るウエスキーを廃(よ)しました。父は又、馬に乗るのが好きで、馴れた駒を飼って置きましたが、次には之を廃(よ)しました。又次には日々の新聞紙を廃(よ)しました。この様に自分の慰みを一つづつ減らしながらも、父は溜息一つ発しませず、同じ慈悲深い父で有りました。が顔に見えないその嘆きが身体に見え、父の体は次第に健康を失いました。

 更にこの年は、農家一般に難渋を極めた年で、四月に気候が温かな為、一切の作物に花を持ちましたが、実の結ぶ頃に成って、急に寒さを催し、作物は残らず枯れ、牛馬は流行病で死んでしまいました。私共の一家は洗ったように貧しくなりました。この様な貧しさも私は何とも思いませんが、唯父の苦労な顔を見ると、身を削られる様な思いが致しました。

 是が私の十三の年で、それより十七の年まではこの有様が打ち続き、家は益々貧しく成りました。

次(第六話)へ

a:184 t:1 y:1

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花