巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ作   黒岩涙香、丸亭素人 共訳  トシ 口語訳

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美人の獄   黒岩涙香、丸亭素人  共訳  [#jaa53c27]

            第六回

 雪子は暫(しばら)く服部の顔を眺めて又言葉を継ぎ、
 「ハイ十七の歳が実にこの身の生涯を過る廻り合わせで有りました。貴方は貧苦と言う事をご存知かご存知の無いか知りませんが、私は実に貧苦の谷底を通り抜けました。貧苦は満る潮の様に次第次第に迫って参ります。大勢の召使も一人一人に暇を遣(や)り、伯母と私がか弱い手でその代わりを致します。

 それよりも更に辛いのは、日々に衰える父の顔で、私は見るにも見兼ねました。大事にしていた時計や鎖、飾り物まで一個一個売り尽し、果ては私が読む書物から、部屋の内の飾り付けを剥いで売り、戸棚押入れの様な作り付けの造作は申すに及ばず、客室に敷いてある絨毯まで何時の間にか無くなりました。

 時に由っては、夕飯まで食べずに寝る程の始末で、親子三人着るものも無い上に、家までも裸体(はだか)に成りました。父も最(も)う思案に尽き、或る朝私を呼びまして、今迄は何うにか斯(こ)うにか貧苦と戦い、命だけは繋(つな)いで来たが、今日と言う今日は殆ど思案に厭倦(あぐ)んだと言って、手を取って涙を流しました。

 私はその涙を吸い取り、
 「エ、お阿父(おとう)さん、嘆くには及びません。私が働きます。」
と慰めても、父は唯だ苦笑いをして溜息を吐くばかりです。雪や、お前は未だ世の中の事を知らない。これこの通りに成って居ると言いながら、手紙の様な者を見せました。それを読むと地代がもう二年分も滞り、家主からの催促の手紙で、今より一月の中に払わなければ、立ち退きを命ずると書いて有ります。

 『エ、阿父さん、何所へ立ち退きます。』
 『何所と言って立ち退く所があれば心配はしない。ここを立ち退けば野に寝、林に臥(ふ)して三人が乞食に成るのだ。』
と父は非常に失望し、これから毎日の様に伯母も共に泣き暮らしました。頓(やが)て一月の日は経っても、是と言う当ては無く、愈々(いよいよ)立ち退きの五日前に、地主から又手紙で金子が出来たか出来ないかと問うて寄こしました。

 父は仕方無く、未だ出来ないと返事をして遣(や)りましたが、翌日は十里の道をはるばると地主が自分で出て来ました。この地主と言うのが後に私の夫と為った、梅林安雅(やすまさ)です。伯母が取り次ぎに出て色を変えて飛び込んで来て、
 「雪や何うしたら好いだろう。来ましたよ地主の梅林さんが。エ、雪や、お前は美しいから、その顔を見せれば、梅林さんが心が幾等か弛(ゆる)むだろう。お阿父さんがお目に掛かるまで、行って待遇(あしら)いをしてお呉れ。」

と拝む様に言いますから、一つは美しいと言われるのが嬉しく、一つは又父の貧しい様子を説き、梅林を宥(なだ)めて見ようと斯(こ)う思って、応接の間へ出向かいますと、背の高い立派な紳士が立って居ました。この人が我が父に心配を掛けるのかと思うと、私は一目見て早や悪(にく)みの心を起こしましたが、先は何だか私に見惚(みと)れて居る様でした。私は成る丈優しい言葉を使い、

 「貴方が梅林さんですか。私はこの家の娘雪子ですが。」
と言うと、
 「爾(そ)うですか。いかにも私は梅林安雅です。」
 「父が早速にお目通り致す筈ですが、直ぐに貴方がお出でに成った事を知らせては、心痛して病気に障(さわ)りますから、暫らくはここにご猶予を。」

 「ハア、既に私の用向きをご存知と見えますな。」
 「ハイ、知って居ます。」
 「では定めし邪険な男と思(おぼ)しめしで有りましょうが、ナニ、急ぎません。何時でも父御の御病気に障らない時を見計らって、お伝い下されば好う御座います。今日で了(いけ)なければ、又明日参りますから」

と思ったより優しく言いますから、私はこれに力を得て、
 「私の願いは、どうかお銭(あし)の事を待つ様にして頂きとう
御座いますが。」
 「爾(そ)うですか。貴嬢(あなた)は幾歳です。」
と歳を問われて、私はもう既に何と無く、この人は後々我が身の為にならないと思い込み、我知らず一足後ろに引き下がろうと致しましたが、ヤット踏み止まり、

 「ハイ十七です。」
と答えました。
 「イヤ地代の事は今日言うには及びません。何(ど)うか貴女の手から牛乳(ミルク)を一杯戴きたいものです。」
 「ハイ、もう牛は売って仕舞いました。この家では誰も牛乳を呑まずにいます。」
と思わず涙を浮かべますと、梅林は哀(あわ)れむ様な顔でこの部屋の貧しい様子を見て、

 「お察し申します。」
と嘆息(ためいき)を吐(つ)きました。
 「でもシダア酒とビスケットで好ければ有りますが。如何(いかが)です。」
 「イヤ貴嬢のお手から戴くなら何でも結構です。」
と一々貴嬢のお手と言うのが私の耳に障(さわ)りました。頓(やが)て二品を持って梅林の前に出ますと、食べながら色々と私の身の上を問い、

 「友達は在(あ)るか、読み書きは出来るか。」
などと、根堀り葉掘り聞きました。後で思えばこの時から早や私を愛し始めたのです。四十になる紳士が十七の小娘を見初めるとは今でも恐ろしさに身震いが致します。この所へ父はヨボヨボと出て参り、丁寧な言葉で言い訳を致し、

 「御覧の通りの有様ですから何うか気永くお待ち願います。その中に豊年にもなれば残らず払いますから。」
と涙を垂れて言い訳をしました。梅林は決して外の地主ほど邪険では有りません。私は唯彼を嫌いましたが、熟(よ)く考えれば中々親切の人でした。

 「それはお気の毒です。」
と言って、これから農家の不景気な事を柔らかに話しましたが、父は素より伯母までもその優しい言葉に惚(ほ)れ、帰った後に珍しい人だと褒めて居ました。梅林は当分この土地に逗留するから又緩々(ゆるゆる)と話に来ると言って、この日は直に引取りましたが、是からは毎日の様に参りました。

 それも父への用事では無く、唯私に逢って四方八方(よもやま)の話をする丈でした。それで伯母なども、私に待遇(あしら)わせて置けば、何時までも機嫌が好いものですから、来る度に雪や雪やと言って私を出しました。何う云言うものか、私は来る度毎に憎みの心が募ります。斯(こ)うまでもこの人が、父や伯母などを恐れさせているかと思うと、本当に面(かお)が憎く成りました。

 でも梅林氏は次第に私に馴(な)れ馴れしくし、終に或る時何時もとは異(かわ)った目付きで私を眺め、
 「嬢よ、貴女は誰を一番愛します。」
と問いますので、
 「それはもう父を一番に愛します。」
と答えました。

 「では父の難儀を救う為には、何(どん)な事でもしますか。」
 「ハイ、命を捨ててもかまいません。」
 「ナニ、命まで捨てるには及びません。それよりもズット優しい事が有ります。私と婚礼をおしなさい。私の妻にお成りなさい。爾(そ)うすれば父御は生涯安楽に暮らされます。」

と真面目にその顔を突き出しましたので、私は驚くと共に怒り、返事もせずに逃げ出しました。

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