巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ作   黒岩涙香、丸亭素人 共訳  トシ 口語訳

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美人の獄   黒岩涙香、丸亭素人 共訳

            第八回

 (訳者曰く、以下更に数回は雪子の身の上話しである。余り長過ぎるのを恐れるけれども、切り縮めることは出来ない。)
 梅林雪子はその美しい目を弁護人の真面目な顔に注ぎ、
 「貴方は蜘蛛が巣を編む所を見ましたか。気永く魂強く念の上にも念を入れて巧みに糸を掛け回し、その上で小虫を捕らえる有様は、丁度梅林安雅が私を妻にした有様と同じ事です。私しは蜘蛛の網に懸(か)かった小虫です。十七の年から二十歳越す今年まで、その網に懸かって居ました。

 梅林は死にましても、その網は未だ破れず、今でも私は自由の身になりません。
 それでは再び婚礼の事を言わないからと斯(こ)う約束して帰りました。その翌日から梅林は又一層私の身に気を付けて、朝も来る、昼も来る、夜も来る、その来るたびに空手では参りません。父には絶え間なく好きな飲食物を贈り、私には頭挿(かんざし)だの帽子だのと高価な品物ばかり持って来て、私がその様な物は要らないと言うと、後へ廻って伯母を呼び、これを嬢に遣って呉れと伯母の手へ渡して行きます。

 それに由り、伯母も父も益々梅林を大事にし、帰った後では涙を垂れて天にも地にも無い様に賞(ほめ)ました。それに引き替え、私は又来る度に悪(にく)みの心が募るばかりで、果てはその傍へ寄るのさえも身の毛が立つかと思いました。梅林も終には之では了(いけ)ないと思いましたか、或る日の夕方、何と無く悲しそうな顔をして、父と伯母の許へ参り、近々の内に外国へ旅立ちして一、二年帰らないが、その留守の間、家事向きは残らず代理人に托したから、地代の事も代理人に相談して呉れ言いました。

 父は取る年に涙脆(もろ)く、早や涙声に成りまして、
 「それでは私共は何うなりましょう。」
問いますと、梅林の言様が好いでは有りませんか。私は心が弱くて、地代の取立てなどは出来ませんから、それで代理人を頼みます。けれども貴方方とはこの通り懇意にしたことですので、特別に今から一月待つ様にと言い付けて置きました。一月経つうちには、又何の様な幸(よ)い事が来るかも知れません。」

と斯(こ)う言うのですよ。父も伯母も返事は無く、唯涙に透かして私の顔を見るばかりで有りましたが、その眼の中には、何うぞ婚礼を承知して呉れと願う心が充分に見えました。そから梅林の帰り際に、父は又悲しげに、
 「今日までは、貴方のご親切でこの通り暮らしましたが、もうこの先は何の様に成ります事か、生きて居る気も致しません。」
と云いました所、梅林は、イヤ爾(そ)う言われては、誠にお気の毒ですが、今更致し方有りません。私も是まで手を尽くしたけれど、我が思う事は叶わず、何うしても縁の無い者と断念(あきら)めて、実はその失望を忘れる為、外国へ行くのですから。」

 「でも未だ一度はお出でに成りましょうね。」
 「ハイ、愈々(いよいよ)出立の時、改めて暇を乞いに上がります。」
と打ち萎(しお)れて立ち去りましたが、私はその後ろ影を見て、 「
 アアこの人が父の命を手の中に握って居るかと、思わず悔し涙を浮かべました。父と伯母と共に泣き伏して、顔さえ揚げません。私はそれを慰め、

 「イエ阿父(おとう)さん、未だ一月の猶予が有ります。お嘆きなさるには及びません。」
 「ナニを云うのだ。一月が二月でも、金の出来る見込みは無い。唯苦しみを長くするだけの事だ。」
と、この後は死んで居るか生きて居るか分かりません。ハイ実に父の言う通り苦しみを長くする丈の事で有りました。

 この翌日からは、満足に食う事も出来ません。父も伯母も毎日の様に愚痴を云い、
 「お前が唯一言諾(うん)と言って呉れさえすれば。」
と時々は手を合わせて拝みましたが、その中に早や一月の日も経って、悲しや猶予の期限も尽きました。尽きるや否や、梅林の代理人がその筋の人を連れて来て、この家は公売に付するとやらで、屋根の瓦を剥がし、周囲の塀を毀すなど、それはそれは今思っても身震が致します。

 伯母と父は一室に籠り、右左から泣きながら私に向かい、
 「エ、お前、この様な憂き目を見るのも、お前が片意地を張るからの事だ。厭(いや)でも有ろうけれど、何うせ他人の妻になる身で、何うぞ二人を助けると思って、辛かろうが承知してお呉れ。明日からはもう行く所も無いのだから。」
と日の暮れるまで私を離しません。翌朝早々梅林は、未だ代理人の来ない先に暇乞いに参りました。父は唯泣くばかりで言葉も出ません。

 私はもう梅林の言葉に従い、その妻に成るか、父を背に負うて、この家を立ち去るか、二つ一つは、逃れられない事と、独り覚悟は極めましたが、それでも、今一度梅林に願って見ようと思い、彼を一間に呼び、丁度神に祈りを捧げる様に、その前へ鰭伏(ひれふ)して願いました。

 「何うぞ婚礼などの事は言わずに、年取った父に免じて切めては、父の病気が直るまで待って下さい。その中には私が身を粉にしてでも働いて、少しづつ今までの地代を入れますから。」
と声の尽きるまで願いました。梅林はそれでも聞きません。

 「ナニ身を粉にするにも働くにも及ばない。栄耀栄華をして、父を救う事が出来るのだ。私の目には、嬢ほど綺麗な女は無い。この通り拝むから私の妻に成って呉れ。年も違うし、如何にも厭では有ろうけれど、暫らく一緒に暮らす中には、私を愛する様にして遣るから。」

と逆さまに手を合わせました。
 「イエ、そればかりは出来ません。愛情の無い人と夫婦には成られません。貴方も又、それだけの身分が有れば、何の様な妻でも心の儘(まま)に迎える事が出来ますのに、タッタ一人、貴方を愛する心の無い、左様な女を妻になさるのは、身分に似合はわないと言う者です。愛情の無いのに私を妻にすると仰(おっしゃ)るのは、それは婚礼では有りません。私の身を買い取るのです。私の身は売り物では有りません。買い取る事は許しません。」

と斯(こう)まで言って断りましたが、それでも私の言葉は通りません。父に泣かれ伯母に諭され、終に梅林に買い取られる事に成りました。終に婚礼を承知しました。今思っても悲しう御座います。


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