巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ作   黒岩涙香、丸亭素人 共訳  トシ 口語訳

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美人の獄   黒岩涙香、丸亭素人 共訳

            第九回

 雪子は 言葉を継ぎ、
  「ハイ、父には毎日泣かれ、伯母には諭(さと)され、もう逃れる路は無く、私はこの身を捨てる気に成って、遂に婚礼を承知しました。私は聖書を読み、ヤフタの娘がその父に殺された事を知って居ます。私は実にヤフタの娘よりもっと辛いと思いました。彼は自分の最も愛している、その父ヤフタの手に掛かって死にましたが、私は最も嫌いな人に命を捧げたのです。

 彼は一時に殺されましたが、私は年老いて死ぬまでその苦しみ逃れません。私は自分の身をヤフタの娘に引き比べ、毎夜ヤフタの娘の夢を見ました。私の悲しみに引き替えて、伯母と父の喜びは並大抵ではなく、雪子は命の親だと言って右左から私の涙を吸い取りました。是から一週間も経たない中に、梅林は金銭を惜しまず父の家を修復して、貧苦の為に売り尽くした品物は悉く買い返し、昔よりも更に一層伯母と父に贅沢を極めさせ、とりわけ私へは、金銀珠玉を数限り無く買って呉れ、毎(いつ)も我が妻を全国の人に羨まれるほど仕合せにして遣らなければならないと口癖の様に言いました。

 それでも私は少しの愛情も起こりません。これ程まで厭がる者を、無理にも妻にしようとは、実に邪険な人だと益々嫌いに成りました。愈々(いよいよ)婚礼の前の日に成り、梅林は又もや種々の飾り物を買って来て、私の前へ並べましたから、私は今一度その心を宥(なだ)めて試(み)ようと思い、

 「貴方はこの様な大金を捨ててまで、私を歓(よろ)ばせ度いと思うのですか。」
 「それは最も思うドコロでは無い。未だこの上に財産を捨ててしまっても和女(そなた)の為には厭(いと)いはしない。」
 「でも貴方、その様な費用を掛けなくても、私を喜ばせる事が有りますのに。」

 「エ、費用を掛けずに、何(ど)うして和女を歓ばせる事が出来る。こうなったら夫婦だから、その様な事は遠慮をしないで言うが好い。エ、何うすれば好いのだ。」
 「それが貴方に分かりませんか。」
 「そうサ、分からないよ。分かりさえすれば、直ぐにその通りに仕て遣るから、サア遠慮せずに言うが好い。」

 「ハイ、それなら申します。私を自由の身にして下さい。この後とも父に難儀を掛けない様にして、それでこの縁組を取り消して下されば、私は是ほど嬉しいことはありません。その御恩は生涯忘れません。そうして下されば、貴方の恩にほだされて、遂には貴方を愛する様に成るかも知れません。貴方はそうは思いませんか。」

と充分その心に落ちる様に説きました。梅林もこの言葉には少し心が動いたのか、暫(しば)らく無言で考えて居ましたが、
 「そればかりは私の力に及ばない事だ。私が和女を愛するのは、和女が父を愛するよりもっと一層強いから、自分で仮令(たと)い思い切り度いと思っても、切る事が出来ない。実に年端も行かない女を、無理に我が妻にするのは、我ながら邪険とは思うけれど、思いながらも断念(あきら)める事が出来ない。今こうして邪険に貰い受ける代わりには、私の命が続く限りは、和女(そなた)を及ぶだけ仕合せにして、気永く私を愛する心が出る様に、今暫らくの所辛抱して呉れ。」

と両の目に涙を浮かべました。若し愛情の有る女ならば、これ程まで親切な言葉を聞けば、今までの悪(にく)みを忘れて、抱き付きも仕ましょうが、私の心の中には、全く天が愛情の種を植え付けて呉れないと見えます。私は是でも梅林を愛しません。貴方がそこまで仰(おっしゃ)れば致し方が有りません。私は憎みながら、貴方の妻に成りますが、その代わり世間の妻が夫の機嫌を取る様に、貴方の機嫌を取る事は出来ません。この身は貴方に買い取られてもも、心までも買われませんから、そのお積もりで居らっしゃい。」

 「それは素より承知の事だ。追々私の親切でその心まで買い取るから、それまでは如何様にも私を憎むが好い。」
とこう言って帰りましたが、翌日は愈々婚礼の式を済ませました。式は済んでも、夫婦と云うのは名ばかりで、私は梅林の傍へも寄らず、口も聞かず、この人は我が身の自由を買い取った敵だと思い、絶え間なく憎んで居ました。その中に私は段々と瘦せ衰え、笑顔を作る事も知らず、顔の色は青くなり、目は奥へ落ち込んで、鏡を見る度び悔しいと思いました。

 それでも梅林はまだ私を愛し、贅沢という贅沢はさせないものは無いと言うように、仏蘭(フランス)から伊太利(イタリア)と多くの日数を掛けて、この上も無い贅沢の旅を致しましたが、それでも未だ私の心は同じ事です。少しも梅林を愛しません。後には梅林も余りの事だと思ったのか、

 「愛してくれる様になることばかりを楽しみに、今までは及ぶだけ力を尽くして見たが、少しもその効能が見えないのは、察する所、和女は外の女と違い、天から愛情を授かって居ないので有ろう。それをこの私が無理に妻に迎えたのは全くの過ちで有った。重々も謝罪(あやま)るから、今までの事は許して呉れ。嘘や邪険な男と思った事で有ろうけれども、一旦夫婦に成ったものを今更離縁するのは、法律の許さない所で仕方が無い。

 それだから是からは、互いに仲好く上部だけ夫婦の様に暮らそうでは無いか。吾女(そなた)はその様にクヨクヨ思って居ては、唯身体が衰えるばかりで、自分でも辛いだろう。それよりは世間向きだけは、仲の好い夫婦と見せ掛け、互いに尽くせるだけ丈の歓(たの)しみを尽くすのが切(せめ)てもの気晴らしだ。私も毎日和女の悲しむ顔を見て居ては、身を切られるよりもっと辛い。内実は離縁した者と見做し、全くの他人に成って、睦まじく暮らす外は無い。」

と充分後悔の色が見えましたので、私もその気に成り、この後は、上部だけ夫婦の様にして居ましたが、愛の無い人同士が一つの家に居るほど辛い事は有りません。人前では仲好くしても、人の居ない所では、仮令(たと)え廊下で擦違っても、互いに顔を背けます。この有様が一年二年と続く中には、梅林もシミジミ私を憎む事と為りました。

 実に梅林は善人で人を愛する心が非常に強い代わりに、人を憎む心も類(たぐい)の無いほど強いのです。私が梅林を憎んだよりももっと痛(ひど)く私を憎み出しました。成る程私を憎むのも無理は有りません。それでも私は自分が悪いとは思いません。愛情の無いのに身を許すのは、女の操を破るのです。私は今まで唯操を守ったばかりで、その外には梅林に露ほども悪い事を致しません。

 ハイ梅林は私に操を破らせて、我が欲を遂げようとし、それで自ら苦しみを求めたのです。けれども梅林が私を憎む様に成ってからは、二人の間ほど、世に苦しい間柄は有りません。」
と言い来たって雪子は深い嘆息(ためいき)を洩らした。



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