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武士道 一名「秘密袋」   (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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 武士道上編 一名「秘密袋」         涙香小史 訳

               第十七回

 縄村中尉が帰り来ては少女弥生を此の町から連れ出す見込みは消えた。外に何とか工夫は無いかと老婢お律は空しく心を悩ますと、この様な所へ窓の戸を開き、主人保田老医に案内されて入って来た一人有り。 鋭い目、尖っている鼻、そうでなくても総体に厳(いか)めしい顔を又一入(ひとしほ)厳めしく見せるのは是こそ市民が鬼神の様に恐れ戦く此の町の市長である。

 此の人今朝から勝ちに乗じて部下と共に勤王軍の逃げるのを追って行ったとの事なので、今は其の事を終わって帰って来た者に違いない。老婢お律も悪人腕八もこの様な場合にこの様な人が入って来たのに遭っては、余り好い気持ちはしない。唯目礼しただけで控えていると、市長は弥生を見て保田老医を顧み、
 「アア、是がスイス兵を引き連れて絶壁を登ったと云ふ女武者だナ。」

 老医は曖昧に、
 「女武者と云えば立派に聞こえますが、実は自分の身が危いことさえ知らず、崖道の案内者に使はれたのでしょう。」
 腕八も之に和し、
 「爾(そう)です。余ほど愚かな女の様です。」
と云うのは、彼未だ戸外の街に縄村中尉が帰って来て最早此の子を救うべき必要の無い事になっている事を知らないと見えた。
 
 市長は之を聞き流して、
 「でも狸田軍曹が訴え出た所に由れば、全く敵の間諜で、此の土地の者ではないと云うが。」
 お律は既に縄村が帰って来て、我が策の全く外れようとしている事を知ったが、猶(なお)何とかして弥生を助けようとして非常に熱心に、
 「此の子を此の土地の者で無いなどと飛んでもない事を云います。此の子が此の土地で育った事は此処に居る腕八や老医の外にも沢山知って居る者が有ります。」

 市長はどちらとも判断する事が出来ず、疑はしそうに三人の顔を見回していると、この様な所へ彼の縄村中尉は入って来た。
 市長は中尉を見て非常に喜び、
 「オオ中尉か。先ア如何して還(かへ)る事が出来ました。昨日は君を内通者だなどと言い触らす者が有って、実は拙者も幾分か疑いを挿(はさ)んだが、今となって見れば、君が危険を冒して門外に火を放ったのが、敵の失敗する元で、頭到我が軍の勝利となり、敵は四方へ逃げ散った。私も今迄逃げる敵を追い駆けていたが、何しろ此の市(まち)を無事に防いだのは君を第一等の功とする。」
と云ひ、中尉の手を握り締めると、中尉は褒められて嬉しくも思わないのか、容易ならない面持ちで、

 「市長、私は非常な任務を持って帰りました。」
と言う。市長は怪しみ、
 「エ、任務とな、旨(うま)く逃げて帰ったかと思へば、逃げ帰ったのではなく、任務を持って帰って来たのか。」
 縄「爾(そう)です。私は茲(ここ)に居るこの少女を勤王軍へ無事に送り返すという約束を以って帰ったのです。」
と、弥生を指差し非常に異様な事を言うので、市長は眉を顰(ひそ)め、

 「私には少しも分からないが。」
 縄「イヤ、斯(こう)です。私が捕らわれるや直ちに射殺される所で有りましたが、他日若し敵の士官が此方へ捕虜となった場合に、其の捕虜と私とを引換えると言ふ用意の為に敵が私を生かして置きました。爾(そう)すると今朝に成り敵方で大切にする此の少女が此方に捕らはれましたから、敵の大将が私へ向ひ、汝と少女とを引き換えにする所だけれど、敗軍の際で其の手続きを踏んで居られぬ故、茲(ここ)でお前を放って遣る。

 その代りお前は自分の軍に還えり直ちに少女を放って還れ。若し少女を放ち還へす事が出来なければ、お前自ら此方へ帰って来い。此方は少女が汝の軍で射殺される返礼として汝を此方の軍で射殺すからと斯(こう)云ました。其れだから私は少女と交換に帰ったのです。私を自由の身にして下さるには少女を自由の身に仕て遣らなければ成りません。是が捕虜の交換です。」

 市長は初めて飲み込む事が出来て、
 「フム、捕虜の交換か、成る程、昔から有る事だ。シタが敵は此の少女を何故君と交換するほど大切に見做(な)すのだろう。」
 縄「其れは此の少女が今迄数多の軍功を立てた為でしょう。此の少女は女ながらも中々勇気が有り、士官よりも大切だと云ふ事です。今朝一軍の先鋒と為り、十二名のスイス兵を引き連れて海岸の崖から此の街へ攻め入ったのを見ても分っていましょう。」

 此の言葉は少女の身に却って死刑を宣告する様な者である。今迄お律と保田老医が弥生を白痴だと言っていた計略も全く破れてしまった。市長は老医に向かい、
 「何と聞きました。是でも少女を白痴(ばか)だと言いますか。」
 老医は静かに、
 「兎に角、危険と言ふ事を感知する丈の能力を備えて居ない事は確かです。」

 お律も必死になって、
 「ハイ、誰が何と言おうとも此の少女は此の町で育ったのです。」
ハイ、五歳の時まで私が育て上げたのです。此の市の人は皆知って居ます。」
と叫んだ。市長は既に斯(こう)だと決心していたので敢て此の事を争わず、唯益々不機嫌な様子で、

 「中尉、此の少女が敵でそれ程重く見られ、且つは敵軍の為に様々な戦功が有ったとすれば、これこそ一人の国賊と言う者で、国法に従い刑罰に処せなければならない。」
 縄「捕虜として私と交換する事は出来ませんか。」
 市「無論それは出来無い事だ。昔は兎に角、今の世に捕虜交換と言ふ事は国と国との戦争に限った者、内国で国法に反して乱を為す者は国法上の罪人ゆえ、一旦捕らへれば国法っを以って処分する外は無い。」

 縄「即ち死刑ですか。」
 市「勿論の事」
 縄村中尉は恨めしそうに嘆息し、
 「爾(そう)仰(おっしゃ)れば致し方が有りません。私も敵軍へ引き返し、約束の通り敵軍の手で射殺されましょう。」
と云い、深く決心した様子で立ち上がるのは、二言は無い武士の習い、詮方無しと言ふべきか。



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