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武士道 一名「秘密袋」   (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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 武士道上編 一名「秘密袋」         涙香小史 訳

               第二十回

 縄村中尉の入れられたベントの獄と云うのは、町牢と違い多く軍人などを入れる所で、その牢番も昔軍曹の役に就き、この程齢五十に喃々として初めて少尉の待遇に進められた鼻添という罷役軍人である。軍人だけに己より等級の高い縄村中尉を尊敬することは並大抵では無い。

 今でこそ我が手の裏(うち)の囚人ではあるが、何時我が身をチュウチョクする様な上官と為って再び世に出るかも知らないので、今之に親切を施すのも他日の身の為であると思い、獄の二階に在る最も豊かな室を中尉の居所とし、食事も己の食すると同じ品をば己自ら持って行って同じテーブルに向い合って食するなど、囚人を扱うよりも殆ど客を扱うようだ。

 更に中尉が何時も引き連れている従者鉄助(前に出づ)さえ此の牢の構え内に来るのを許され、鼻添牢長の官邸の一室に寝起きして食事その他の折々に中尉の許へ用聞きに来るので、中尉は之に煙草その他の買い物を命じ、或時は口に適する酒をさへ買って来させるなど、其の様子は宛(あたか)も宿舎住居の様である。唯異なるのは頑丈な入り口の戸に外から堅く錠を卸し、内から開く事が出来ない一条のみ。

 しかしながら幸にして、一方に方四尺(1.2m)ほどの角窓があり、之から望めれば海を隔てて英国の南に在る島々も霞の如くに見え、聊(いささ)か心を晴らすに足りる。
 窓の下は海に臨む崖で、険しく直立し、高さ百五十尺(45m)に余る程なので、如何なる囚人も之を下りて逃げることは出来ない。その為にだろか何れの部屋も此の方に向いてだけ窓を開き、逃げたければ逃げよと言う様に開け放してあるが、昔から誰一人この崖から逃げようとした命知らずは無しとかや。

 中尉は此の牢に入ってから一身の場合を考えて見るに、弥生と言う少女と交換される約束で、敵から放ち還(かえ)された者なので、何としても彼の弥生を敵に還(かえ)すか、そうでなければ自分の身が放たれた時、敵の大将に約束した通り、己自ら還(かえ)って行き、再び敵の捕虜と為らなければなら無い、否再び敵の捕虜と為るのでは無く、弥生を救い出すまではこの身は今も敵の捕虜である。

 捕虜であるのに唯敵の考えで使者としてわが軍へ送られた者なので、未だ放免せられた者では無い。放免されていない者が元の敵軍へ還(かえ)って行くのは、我が身の帰るべき所へ帰って行く者にして、疑うまでも無く、当然の条理である。条理のこの様に明らかな事を、我が守る事が出来ずに、この儘(まま)敵軍に帰らずに止んだならば、我は再び勤王軍の者等に対し、軍人として合わせる顔が無い。

 共和軍の武士の魂無しとは以前から彼らの嘲(あざけ)る所であるのに、彼らに対し、広言吐いて来た我すらも武士の道を踏む事が出来なければ、実に共和軍総体の直れであるばかりか、他日彼らに逢った時、軍人の面汚しよと笑われても弁解する言葉も無い。名誉を以って生き、名誉を以って死すのが是軍人の本分であるので、本分に従って死すことを何をか厭おう。従容として彼等の軍に帰って行き、共和国万歳を三呼して死に就くのは普段夢にまで見る武士の死に様である。

 この様にして日頃我が徒を侮る彼れ貴族輩をして、平民の軍人中にもこの様に義を重んじる者があるかと驚かすことは又男子の一快事である。彼らが一言の言葉を重んじ、大事の捕虜を放ったのは、既に我が軍の殆ど真似も出来ない信義である。我此の信に報い、義に酬(むく)いるのに、同じく信を以ってし、義を以ってしなければ、生涯我が心の中に自ら我が身を卑怯者よ、臆病者よと嘲(あざけ)る様な想いが有って、我自ら我が身を重んじる事が出来ない。自ら重んじる事が出来なくて、どうして人から重んじられ、名誉ある軍人である事が出来ようかなど、何れの所から思って見ても心は常に同じ所に帰し、何(ど)うあっても敵軍に帰って行こうとの一念は終に凝り固まって動かすことが出来ない。

 爾(そ)うは云え、如何にして敵軍へ帰って行こう。軍法会議に送られる途中で逃げ去ろうか。否途中で逃げ去れば後から押丁等に追い掛けられるのは必定である。武士の身として、鼠の猫に追はれる様に、押丁輩に追い掛けられ、逃げ走る様な醜いことが出来ようか。たとえその様にして逃げ果たせたとしても、不注意の罪、必ず押丁等に帰するだろう。罪を目下の者に帰するは志士の快しとする所では無い。寧ろ此の牢から逃れ出でよう。此の牢のどこからにしようか。崖に向う角窓は昔から逃れ出した者は一人も居ないと聞く。面白い、崖から落ちて首の骨を砕くならば砕けろ。他人がかって逃れ出る事が出来なかった所から逃れ出る事は又一興である。

 牢破りの罪人とは軍人に取り好ましい名では無いが、命を惜しむ為の逃亡ではなくて、軍人らしく敵に射殺される為の逃亡である。心に恥じる事では無いので、人が何と言おうと顧みるにも及ばない。だからこそ先にグランビルの市長に向っても、我が身が敵軍に帰ることは武士の道なので、之を妨げる命令には服従せず、如何に捕縛しても自ら縛を破って逃げ去ると云い切ったのだ。何の躊躇する事があるだろう。

 この様に思い定めたので、先ず鉄助に其の意を明かし、窓から崖の下に達するほどの長い縄を買って来いと命じると、鉄助は一旦驚いたが、主命と言えば火の中にも投じ兼ねない男なので、密かに縄を調達して来た。猶鼻添牢長に見咎めらる恐れがあるので、夕食の時に、彼に沢山酒を薦め、彼が酔歩満三として出で去るのを見届け、更に鉄助には崖の下まで遠回りして待って居よと云い付け、愈々逃げ出す覚悟で、総ての番卒の静まる頃まで夜の更け行くのを待って居た。



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