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武士道 一名「秘密袋」   (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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  武士道上編 一名「秘密袋」           涙香小史 訳

               第二十二回

 縄一筋あったと言って、弥生の様な少女の身に百五十尺(45m)に余る絶壁を下る事が出来ようか。弥生如何ほど身が軽く、又男に等しい教育を受けたからと言って、昔から男の囚人でさえも逃げようと企てる事が出来ないほどの崖の道から逃げる事が出来ようか。

 しかしながら此の縄、是小桜露人(つゆんど)が心を籠めて送って呉れた者かと思うと彼の傍に飛んで行きたい心地がして、今迄牢の中で死ぬことを祈っていたのに引き替へ、まだ死ん出いない人の方が慕はしい。初めて縄を取り上げて調べて見ると、是に縋れと云は無い許(ばか)りに一尺(30cm)ほど隔てて所々に手掛かりの結び目がある。成る程縄梯子の代わりともなる様に作ったものだ。露人でなくて誰が我が為にこれ程までに心を配ろう。

 やがて室内のテーブルを窓の傍に寄せ、其の上に登って立つと、窓高いとは言へ、身の届かない程ではない。首を出して外の様子を眺めると、一天満々と掻き曇り、崖の下がどれほど遠いか、見定める方法は無いけれど、遥か下の方から岩打つ浪の吼(た)ける声、怒れる様に聞こえて来る。誠に物凄い限りではあっるが、今が今迄死を決していた身には別に恐ろしいと迄も思わない。

 殊には過ぎた日、砲台の下の崖を下って其の間道を探り定め、又十二のスイス兵を引き連れて之に攻め登った事を思えば、道有る所とまだ道の無い所の多少の難易の相違は有っても、命掛けの仕事である事は相同じ、今更何を躊躇しようかと、漸(ようや)く心は決した者の、まだ何となく気にかかる所がある。敢えて我が身を気遣うのでもない。又身を咎められるのを気遣うわけでも無いが、唯何と無く気が進まないのだ。
 
 女でこそあれ今迄事に臨んで臆した例(ため)しは無く、こうと思えば、目を閉じて火水の危きをも冒したのに、或いは虫が知らすと言うものか、今宵に限って何故の怖気(おじけ)だろう。自ら怪しく思いながら我には無くテーブルを滑り降り、挫けた様に其の下に身を置いて、又立ち上がる気力さえ無い様子だが、折しも風が持て来るグランビル寺院の鐘の声が耳に入ったので、指折るとも無く数えると、十点を打って止んだ。

 夜は早や十時と成ったか。お律の認めた手紙に十時を合図に窓を出でよと記してあった。今頃は最早お律が潮のやや干(ひ)いたのを幸い、磯を伝って崖の下で待て居るかも知れないと、心附いては気を取り直し、更に又思ってみると、我が身をこの様に救い出そうとするからは、或いは小桜露人が、先に負った重症の為に、今は危篤の容態と為り、軍(いくさ)は破れ士卒は逃げ散りたる後に、介抱する人も無く、空しく臨終の床に臥して、妹にも同じと我が身の来るのを今か今かと待って居るかも知れない。若しその様な事でも有れば、如何ほどか心細い事だろう。何事にあっても互ひに救い合おうと云い、死ぬなら必ず共に死のうと固く約した間柄で、如何してこの儘に過ごされよう。

 露人は我が身の兄である、否兄では無い、兄よりも恩が深い。結局お律をしてこの縄を我が身に送らせたのも、我が身を救おうとしての親切からで、日頃の約束を踏んだものなので、我が身がどうして心を弱くし、この牢を脱出もしないで居られようかと、忽ち又勇気が日頃の様に復(かへ)りったので、静かに燃え残る蝋燭の下に膝坐(ひざつ)き、暫しがほど神に祈り、無事に小桜露人の許に至る様、守護して給はれ、一筋の縄を頼りに崖を下るための力を貸して下さいと、非常に熱心に念じた上、身を起こして四辺を見ると、一方の太き柱に、荒々しい囚人を繋ぐ為、鎖を付けるための頑丈な鉄の環があった。

 是も或いは神のお告げで、この環に縄の端をを結べと言って我が目に触れさせて下さったに違いないと、早速縄の端を之に繋ぎ、再び食卓の上に登り、先ず縄を窓から外に投げ下し、之を手繰(たぐ)って窓を抜け出だし、初めて石の壁の外面にぶら下がると、薄暗い夜の深さにも忽ち眼が眩み、虚空そのまま左右に傾くかと思われた。それに今迄爾(そ)れ程にも思わなかった海の音は、一斉に高くなった様に聞こえ、耳の裏に鳴り響いて頭も破れる許(ばか)りに思われるのは、海の音のせいだけでは無い。実はわが脳髄の掻き乱れるが為に違いないのだ。

 未だ一尺をも下らないのにこの様では、高さが計り難い此の崖を下り尽くすことは覚束無いと、気を励まして縄の結び目を便りとし、牢の壁だけを下り尽すと、壁の尽きるところは崖の始まるところであって、壁ほどは直立しない。又壁ほどは滑らかでは無い、微(わず)かながらも斜めに傾き、その凹凸している表面に多数の足の掛かる所がある。たとえ爪先だけにもせよ足の掛かるのは一方ならぬ力なので、有難いと心に拝んで、三間ほどを降ると、岩の角突き出ていて、わずかに小休みするに足りる。茲で暫し息継ぎ、更にその下に降りると下は岩の陰になっていて、海鳥が巣を作ると見え、時ならぬ人の気に驚いて幾十羽と無く飛び違ひ、弥生の顔に突き当たるのも有り、是さえ既に気味悪いのに、崖は深く穿(ほ)れ窪んでいる為、今は崖の面に足の触る所も無く、身は全く真の虚空にブラ下がり、唯縄を取る手先の力だけで支えるのみである。

 こうなっては俄(にわ)かに我が身が非常に重いのに心附いたが徒(いたずら)に時を費やしては力が尽きる一方な上に又海鳥が騒ぐのさえ気味悪いので、成るべく早く、上の手を下に運び、足をも縄の節に絡めて、一節より一節と握り握って又も降ると、手に応(こた)へる身体の重みは縄にも重く応えると見え、之が為に縄の撚りは逆さに戻って其の身は千尋刃の空中に縄と共にグルグルと非常に静かに舞い始めた。



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