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武士道 一名「秘密袋」   (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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  武士道上編 一名「秘密袋」                   涙香小史 訳

               第二十五回

 弥生は全く力尽きて、敵の士官縄村中尉の顔を見たまま縄を持つ手を放してしまった。爾しかし此の時縄村中尉の手は既に弥生の背に在った。中尉は初め茲(ここ)まで降りて来て、弥生の顔を覗き込みんだ時、早くも弥生が力尽きて自ら支得る事が出来ないのを知り、其の背を抱(かか)えて居たので、弥生の身は手の力を失ったが、まだ岩角を踏んでいる足だけで支えることが出来た。

 中尉は弥生を落とすまいと確(しか)と其の身を抱き〆めながら、
 「オオ危ない、岩の上に立ってたからこそやっと抱き留めましたが、爾(そ)うで無ければ貴女の重さに私も一緒に落ちる所でした。」
 弥生は唯敵の士官だと思う一念で、其の身が此の人に助けられようとは思っても見ない。何しろ落ち着いて事情を考える暇も無い際なので、茲(ここ)で此の士官に殺される様な気がして、

 「放して下さい。放して死なして、死なして」
と身をもがくので、中尉は更に岩角を踏み直し、右の手は鉄の様な力を以(も)って縄を握り、左の手には堅く弥生を抱きすくめて動かさない、
 「力が足りずに二人一緒に落ちて死ねば兎も角も、それまでは死なしません。」
と云い、更に諭す様な音調で、

 「動いては了(いけ)ません。今動くのは私をまで縄から引き離して殺す様なものですよ。」
と言う。言葉の中には充分な熱心と親切とを含んでいたので、弥生は初めて此の人の他意無きを感じ、
 「私は又貴方が私を殺す為に降りて来たかと思いました。」
言う声は猶も震へ、

 縄「とんでもない事を言う。貴女も牢を脱出(ぬけだ)す積りで茲(ここ)まで縄を伝って降りたのでしょう。私も牢を抜け出す積りです。目的が同じ事ゆえ互いに助け合うのです。無事に二人とも磯まで降りれば、私は貴女を勤王軍まで送り届けなければなりません。是は親切と言うのでは無く、自分の身の利益ですから。」
と言うのは、弥生を若し勤王軍へ送り届けなければ、約束通り其の身が勤王軍に射殺される事を言っているのだ。

 弥生はその様な事など思い廻らす暇も無く、
 「互いにと言って、私にはとても貴方を助ける事は、、、」
 縄「イヤ、総ての算段は後にして、サア、並んで降りましょう。少し休んだから貴女も幾分か力が回復したのでしょう。もう此の下は五十尺(15m)しか有りません。」
と励ましたが、弥生は何の返事もしない。

 中尉は又急がせて、
 「今は未だ潮が干(ひ)て居ます。斯(こ)う言う中に浪が来て磯を包めば、下まで無事に降りた所で、海の藻屑と為るばかりです。サア、降りましょう。爾(そう)して縄の途中で若し貴女の力が尽きたら、直ぐに私しへ爾(そ)う仰(おっしゃ)い。私が抱き留めて休ませて上げますよ。私はもうこの様な崖路(がけみち)には慣れているから、二度や三度は昇り降りしても平気です。」
と、わざと容易そうに云い做(な)すのに、弥生は唯一語、

 「下までは降りられません。」
 縄「それは何故に。」
 弥「縄を送った者が私を欺いたのです。縄が下まで届きません。私は縄の端まで行き、詮方なく又茲まで昇って来たのです。」
 中尉も之には驚いて、

 「エ、縄が短い、では全く貴女を欺いたのです。それは余り卑劣な仕方だ。宜(よろ)しい、そのような悪人の鼻の先で私が貴女を助けて見せます。私の縄は従者鉄助が四十貫以上の重さに耐へると送ったので、長くも有り強くも有り、貴女の身体は軽いから、二人ぶら下がっても切れはしません。サア、私に負ぶさりなさい。負ぶさって私の首へ後ろからしっかり縋(からま)って居ればソロソロ私が降ります。唯背中で少しも動かぬ様にさへして下さればナニ大した事は有りません。」
と言って背を向けるに、弥生は唯身を震わすだけ。

 なかなか中尉の背に負ぶさろうとする様子が無いのは、まだ中尉を恐れているのだろうか。否、否、肉と肉との押し合う迄に男の肌に接するのを非常に辛いことの様に思う処女の天性で、この様な場合にも猶自ら制する事が出来ないことなのだ。縄村中尉はもどかしく、

 「貴女は過日市長の家で私が人々に話した事を何と聞きました。私は勤王軍に捕らえられて、唯貴女と交換される為に放還されたので、貴女を勤王軍へ引き渡す事ができなければ、自分で勤王軍の軍門へ射殺されに行かなければ成りません。ここで貴女に逢ったのは、射殺されずに其の約束を履行する時が来たと私は喜んで居ますのに、貴女は如何しても私を射殺させる了見ですか。」

 鋭く問はれて、弥生は慌てて、
 「イエ、イエ、貴方を射殺させ度いなどと、その様な心ではありませんが、、、」
 縄「ではサア負ぶさりなさい。」
と、千軍万馬を叱咤する口調で殆ど命令の様に云い、早や弥生の片手を取りて自分の首へ巻きつける様に掛けると、弥生は茲(ここ)で言葉に背くのは殆ど手ずから一人射殺すに当たる様に思い、

 「では助けて頂きます。」
と云い、初めて中尉の背に負ぶさると、中尉は唯無言で徐徐(そろそろ)と縄を取って下り始めた。素より身一つででも容易ならない業であるのに、軽いとは云え少女一人を背に負って下る事なので、其の困難は並大抵では無く、弥生は背から幾度か中尉の息の切無いのを聞き、いっそこの身は飛び降りて中尉の身を軽くしようかと思ったけれど、飛び降りて其の身が砕けて死んでも中尉が助かる訳では無く、其の身が死ねば中尉も射殺されるものなので、親切を仇にして報いるのに均しいなど思い直し、気の毒さを堪えて辛抱するうち、有り難い、中尉の足は地に着いて、
 「アア貴女の身は思ったより重かった。」
と云い弥生を石の上に卸した。

 弥生は何と言って謝すべきかを知らない。半ばは夢の心地で先ず四辺を顧みると、磯の彼方に行きつ帰りつする角灯の光が見える。さては老婢お律が我が身を迎へようとして待っているのだろうと喜んだのは僅かの間で、又思えば我が身に縄を送ったのは我が身を殺そうとする敵であって、牢で見たお律の手紙も其の悪人の偽筆であることは勿論なので、お律が茲(ここ)に来る筈は無い。或いは其の悪人が我が死に様を見る為に来たのではないかと思い出しては気味悪く、唯、
 「アレ、アレ」
と指差して中尉の傍に寄り添うと、中尉も眉を顰(ひそ)め、

 「私の下僕鉄助が待って居る約束では有るが、茲(ここ)まで来る打ち合わせでは無く、殊に彼なら人目を引く明かりなどは灯して居ない。」
と言う中にも、角灯は次第に近付き、見れば大の男二人で何やら探し求める様子である。いずれにしても人に姿を認められるは何より辛い牢破りの身なので、

 縄「暫く潜(ひそ)んで様子を見る外はありません。」
と言って二人は大きな岩陰に身を寄せると、灯火を持つ両人は益々近付き、其の何やら俯向いて求める間に灯火の光が彼らの顔に映じた。弥生は見覚えが有ると見え、あっと驚き、又も恐ろしそうに中尉に寄り添い、
 「アレ彼の二人は」
と云い掛けると、此の時早や戻し来る上げ潮の浪一畝(うね)、並外れて非常に高く、岩に砕けて弥生の顔に横手から浴びせ掛けた。



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