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武士道 一名「秘密袋」   (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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 武士道上編 一名「秘密袋」          涙香小史 訳

               第三十二回

 浦岸老人の機転で追手腕八等は山手を指して追いかけたので、海岸の方に逃げた弥生と縄村中尉等は、馬の足遅いとは言え、幸無事に只管(ひたすら)ポンドルソンを指して進んだが、夜明けの頃漸(ようや)くシイ河の岸に達すると、馬は非常に疲れて、殆ど進む事が出来なかった。暫(しば)らく土手の草を食ませ水を呑ませなどした後、何とか此の河を渡ると、渡って一哩(マイル)(1852m)ほど行った所で、縄村中尉と弥生との乗った馬は全く力尽きて倒れてしまった。

 中尉は呂一に向い、茲(ここ)からポントルソンまでの里程を問うと、此の少し先に又セリウと言う河がある。河を渡って岸に沿い僅(わず)かに二哩(マイル)(3.7km)を下ればポントルソンの入り口である。最早馬は無くても進む事が出来るでしょうと言う。中尉は更に弥生に向い、
 「私が手を引いて上げますが、貴女は未だ三、四哩(マイル)(6~7km)は歩かれますか。」
と問うと、弥生は疲れを隠して、
 「ハイ」
と答える。

 それならばと茲(ここ)で馬を捨て、中尉自ら弥生を我が妻の様にして、手に縋(すが)らせて引き立て行き、愈々(いよいよ)セリウ河の此方に達すると、夜は全く明けてきたが、朝霧深く立ち上って、殆ど何も見えない。唯呂一が水音を聞き分けて、此の辺りは確かに浅瀬であると言うのを頼りに渡り始めると、なるほど水は浅いけれど、底の石は滑らかで、弥生は足を踏み外すことが多く、其の度に中尉の手に重く靠(もた)れるが、中尉の身は柱の様に全く揺るが無い。

 茲(ここ)に至って弥生は我が身の危うさよりも深く中尉の親切と勇気に感じ、無言の中に今迄の事を考えて見ると、男子の中の男子とは実に此の人を言うに違いない。敵に放されて、猶(なお)敵に約束した一言を重んじ、命を的に其の約束を果たそうとする義の固さは言うまでも無く、幾度か我が身を九死の中に救い、艱難を嘗め尽した事は、世の常の人に真似の出来る事では無い。我が身は如何にして此の恩義に報いたら好いのだろう。此の人の広げた両手の陰こそ我が身の為には金城鉄壁にも優る楽土である。生涯を此の保護の陰に置いたら、如何ほどか心安く如何ほどか嬉しいことだろうと、思い初めると急に恥ずかしさが湧き上がり、唯身が震えて来るのを、中尉は気遣はしそうに、

 「弥生さん、寒いのですか。もう少しの辛抱です。」
と又も引き立てられる手の先には、今迄に感じなかった様な力があって、一道の恩愛の気、温かく弥生の身に融けて入るかと思われた。弥生は水の冷たいのも心に感じず、
 「イエ何(な)に」
と言ったまま暫(しばら)くは心の闇の夢路を辿(たど)ると、やがて河は尽き岸に上った。

 呂一は霧の中に目を見開き、
 「大変ですよ、河下のポントルソンの辺に早や戦争が始まって居ます。」
 言う声に続いて幾発の銃声遠く聞こえて来たので、中尉も、
 「成るほど始まっているわ、併(しか)し戦争があれば、勤王軍と共和軍の居る事が分かるから、銃声の聞こえる方へ我々は進めば好い。弥生さん、もう分かれる時が来ました。」

 弥生は唯、
 「誠に御厄介を掛けました。」
と言って中尉の顔を見上げる目には涙を湛(たた)えているのを蔽(おお)うことが出来なかった。
 縄「もう少し行けば戦争の横手へ出ましょうから、貴女は勤王軍へお走りなさい。私は共和軍に駆け込みます。爾(そ)うすれば直ぐに貴女と敵味方に成りますが、世の中は妙なものです。」

 弥生は今まで兄の様に慕っている小桜露人に分かれた事も有るけれど、この様に別れが惜しく、この様に悲しく思ったことは無い。迫り来る涙を漸(ようや)くに押し留めて、
 「貴方は共和軍に帰えれば、軍法会議とやらへーーー」
 縄「ナニ、その様な事が有りますものか。グランビルの市長は馬鹿ですから私を疑いましたが、私の大将クレバー将軍は私が敵へ内通などする気質で無い事を良く知っていますから。直ぐに戦争に加えて戦わせます。」

 さては愈々(いよいよ)分かれる時である。生き別れか死に別れか、たとえ此の後逢うことが有っても、敵味方としての対面である。弥生は益々心細い。



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