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武士道 一名「秘密袋」   (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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 武士道上編 一名「秘密袋」           涙香小史 訳

               第三十三回

 若(も)し別れる時が近づかなければ、弥生は其の身が如何(どれ)ほど縄村中尉を力に思っているか気付かなかったかも知れないが、生き別れか死に別れか再び逢うべき目的(めあて)さえ無く、敵と味方に立ち分かれると思っては、俄(にわ)かに心細さが彌(いや)増され、此の人の保護を離れて誰を頼りに世を送ろうかと今迄死を恐れもしなかった身にも似ず、唯心が萎(しおれ)るのを覚えるばかり。

 若し弥生の心がこれ程まで中尉に傾き始めた事を小桜露人に知らせたなら、彼は如何(ど)の様な思いをするだろう。彼が弥生に尽した事は、縄村中尉に劣るとも思はれない。彼がグランビル市の崖の上で射倒されたのも唯弥生を思う為であって、其の時すらも負傷に悩む苦痛の中で我を捨て置き弥生を救へと身を悶へながら従者黒兵衛に言った程である。

 彼今猶(なお)病の床に有れば絶望して死にもするだろう。若し床を離れて居れば、病再発もし兼ねないだろう。爾(そう)は言え、弥生の方でも幼い頃から彼と兄妹の様に育った身が、この様な事で彼を忘れるのでは無い。彼を思う心は少しも今までと変わりはしないが、唯彼を思う心の外に、更に中尉に対し、今迄我が身に感じた事も無い最愛(いと)おしの情が起こっただけである。

 しかしながら逢うも分かれも定まった運であって、如何(どう)仕様も無いので、心細さを胸の中に推し沈め、猶(なお)も霧の中を辿ると、向こうの方から馬幾匹馳せ来る音があった。縄村中尉は、
 「オヤ、騎兵だ。敵か味方か」
と鉄助に向って言うと、馬は早や霧を破り中尉の面前に来て立ちどまった。見れば乗り手は殺されでもしたのか、空鞍で来たものだったので、是幸いと中尉も鉄助も直ちに手綱に手を掛けて、三頭まで捕らえることが出来た。

 縄「真に天の賜物だ。サア、弥生さん、貴女と私はもう何時分かれるか知れませんから、別々に乗りましょう。但し、此の小僧は軽いから貴女と共にお乗りなさい。」
 弥生は低い声で唯、
 「ハイ」
と云い、呂一を従えて中尉と別々に乗ったが、今迄中尉と相擁して乗って居たのに比べれば、親船を去って丸木に移った想いいがした。

 このようにして一、二町(100~200m)を進むうち、道の上に両三個の死骸があったので、中尉は之を見て、
 「アア我が軍の偵察隊が此の辺まで来て敵と衝突したのだ。人数の少ないだけ此の通り敗北して且つ殺された。我々の乗って居る馬も此の者等の馬で有ろう、俺が共和軍に居さえすれば、味方にこの様な恥辱は受けさせないけれど。」
と歯軋りしないばかりに云うのは、部下の兵を愛(お)しむ大将の器量有りと云うべし。

 其の中に又幾町(数百m)か進むと、横手の道から大声に軍事を語りながら此方(こちら)の道を指して来る二人の騎馬武者があった。やや薄くなった霧に其の姿は見えるが、敵か味方か判別が付かなかったので、中尉は戦いも想定して透かして見ると、弥生は傍らから、
 「アレは私の軍の士官です。今話して居た声で、私には分かっています。一人は隊長レシエー、一人は士官ヂレイです。」

 縄「フム爾(そ)うですか。レシエーとヂレーならば私も捕らわれて居る時逢いました。」
 言ううちに彼方も此方を透かし眺める様子だったが、川風に益々吹き払われて晴れて行く霧の間から縄村中尉と鉄助との青い制服を見、敵であると見て取ったか、直ちに銃を上げて此方を射撃しようとするので、弥生は声を限りに、

 「お待ちなさい。私です。弥生です。」
と叫ぶと、素より勤王軍中に弥生を知らない者は一人も無い程なので、二人は驚いて馳せて来て縄村中尉の付き添いを見て、
 「や、ヤ貴方が」
と驚き声を上げたので、
 縄「ハイ、私は貴方の軍の大将に約束した通り、弥生女を救い出して来たのです。」

 レ「是は共和軍の人に似合ない名誉ある振る舞いです。」
 縄「怪しからん、共和軍の士官でも武士の道は守ります。この様に約束を果したうえは、唯今限り私も捕虜の境涯は脱したから茲(ここ)でお分かれ致します。弥生女は貴方がたが大将の許までお連れ下さるように。」
 レ「承知しました。しかし貴方は今貴方の軍が何処に居るか知って居ますか。」

 縄「知りませんが偵察の騎兵が射られて居る所を見れば、此の辺から遠くは無いと思います。」
と言いながら、遠近を見回すと、ポントルソンから南に続く小山の一角に茂った林が有って、林の一方に共和軍の旗が翻(ひるが)える様子が霧の間から認められる。
 縄「アア、分かりました。併し私の軍があそこまで来ていれば、貴方の軍はポルトソンに安閑として居られないでしょう。」

 レ「いかにも爾(そ)うです。貴方の軍の先発隊が我々より先にポントルソンを占領して居ますから、我々は前後に敵を受けて居ます。今夜愈々(いよいよ)ポントルソンを攻め落とし、其処を通り抜けて猶(なお)南方の同士と合する積りです。サア是だけ軍略を知らせて上げますから是を土産に帰りなさい。」

 中尉は分かれようとして、
 「イヤ、お気の毒ですが、私が共和軍へ帰れば貴方がたは到底ポントルソンを攻め破ることは出来ませんよ。」
 レ「ソレよりも再び捕虜に成らない様、逃げる覚悟を先にするのが大切でしょう。」
と互いに劣らぬ挨拶を交わすと、此の時何処からか飛んで来た流れ丸、不幸にも弥生が乗っている馬の耳に中(あた)ると、馬は驚き、一散に跳ね上がり、一同が遮ろうとする暇も無く、彼の小山の一角に旗の見える、共和軍の営の方に疾風の様に飛び去ってしまった。

 アア弥生は漸く勤王軍に帰り入ろうとする真際となり、又も敵軍の手に落ちようとしている。
 是は運か、将(は)たまた命か。



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