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武士道 一名「秘密袋」 (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)
ボアゴベイ作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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武士道後編 一名「秘密袋」 涙香小史 訳
第五十一回
露人に逢わせてやるとの言葉で弥生の心に飛び立つ様な嬉しい想いを起こさせて置き、逢いたければ袋の中の秘密を語れとは、咽喉(のど)を握(おさ)えて背を打つ様な意地悪い問い方である。弥生は情け無い声で、
「袋の中の秘密とは、幾度も言う通り、私の知ら無い事です。如何(どう)してそれが言われましょう。」
腕八は冷淡に、
「それを私に知らせて呉れる親切が無ければ、私としても露人に逢わせる程の親切を出す訳には行きません。」
と云い、早くも立ち去ろうとする気合を示すと、弥生は何も考えられないほど取り乱して、
「夫れ程なら初めから露人が生きて居るの、同じ此の獄に居るのとこの様な事を知らせて呉れなければ好い者を、エエ悪人とは思いながらも是ほどまで意地悪な事をするとは知らなかった。」
と云い、身を床の上に投げ、涙に咽(むせ)んだが無理も無い事だ。腕八は此の様子で弥生が全く袋の中を知ら無い者と見て取ったか、調子を変えて更に慰める様に、
「イヤ真実知ら無いなら、知らせて呉れと言う私が無理です。それを言わなくても逢わせて上げます。その代り嬢様、露人に向かい、アノ秘密さえ分かれば二人とも命が助かるから如何(どう)か其の秘密を知らせて呉れと一生懸命に説き勧(すす)めなければ了(いけ)ません。露人も死を決して居ることなので、自分の命は兎に角も、貴女の命が秘密の為に助かると言えば、決して包み隠しはせず喜んで貴女へ知らせるに決まって居ますから、」
と云う。
是だけならば別に難しい事でも無いので、弥生は又起き直り、
「ハイ、そだけの事なら充分に説き勧(すす)めます。真実貴方が露人を茲(ここ)へ連れて来て呉れさえすれば。」
腕「アアそれで宜(よろ)しい、連れて来ます。成るべくは一層の事に、袋のまま貴女が受け取り、爾(そ)うして貴女から其の袋を私へ渡して戴きましょうか。」
弥「露人が今もまだ秘密袋を持って居ますか。牢へ入れられる時、厳しく身体を検査され、所持品は一切取り上げられた筈ですのに、」
腕「そは爾(そ)うですが、如何(どの)ようにかして隠し持っているかも知れません。一時に幾十人も牢に入れる際ですから身体の検査も充分には行届きません。先(ま)ア兎に角も秘密袋を渡せと言い、愈々(いよいよ)持って居無いと分かれば、それでは中の秘密だけ知らせて呉れと斯(こ)う言って貰いましょう。」
と云う。
何と其の用意の綿密なことだろう。弥生は唯打ち頷(うなづ)いて承知の旨を述べると、腕八は満足し、
「では連れて来ますよ。」
と云って外に出て、戸には元の様に錠をしたが、彼牢の中を見回る役で自由に出入りすることが出来るとは云え、役目以外に一方の囚人を一方の室(へや)へ連れ行き双方を面会させるなどは、他の牢番に見咎(とが)められる恐れがある。その為賄賂を以って番人を我が手下に引き入れて有ると見え、彼が出るや外に待って居た一人の番人が来て、
「大分長く掛ったな。首尾はどうだ、うんと言ったか。」
と囁き問う。
腕「馬鹿を言うな、色恋の話じゃ無いわ。」
番「オット占めたぞ。色恋では無かろうと思うから鎌を掛けて見たのさ。それでは儲(もう)け仕事だな、それなら己(おれ)に口留めが少な過ぎるワ、オイ先刻のを倍にして呉れ。」
腕「此の野郎、人の足許(あしもと)を見やがって」
番「それが嫌なら己も典獄へ密告する丈の事よ。」
腕「ナニ典獄には貴様より己の方が信用されて居る。密告しても取り上げられる事では無い。貴様の威(おど)しなどは恐ろしくも何とも無いが、でも猶(ま)だ此の上に小桜と言う囚人の室(へや)へ行き、彼を此の室まで連れて来なければ成らないから、サア是は手間賃だ。」
と云い、夜にも光る黄色い者を握らせると番人は、
「フム斯(こ)う話が分かれば好い。」
と云い、受け納めた。
是から腕八は又其の番人と共にとある一室の前に行き、戸を開いて、其の番人を待たせて置き、一人其の室(へや)に入ると、冷ややかな板床に身を横たえ、疲れた様子で昏々と眠っている一人は、哀れ彼の勤王軍の副大将小桜露人である。
回天の大事業も戦場に死んだ同士と共に野末の露と消え、身は捕らわれて唯死刑を待つばかりの運命と為っては、千軍万馬を叱咤した面影は無く、窶(やつ)れ果てたる寝姿は如何(どの)様な夢を見つつ有るのだろうか。
是が勇士の果てかと思うと、坐(そぞろ)に涙が催(もよう)される許(ば)かりであるが、腕八は哀れと思ふ様も無く、唯此の眠りを覚まそうとして靴音高く足踏み鳴らすと、小桜は目を覚まし、恰(あたか)も戦に急に応じようとする様にたちまち立ち上がった。
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