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武士道 一名「秘密袋」   (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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  武士道後編 一名「秘密袋」           涙香小史 訳

               第五十四回

 今日か明日か、死刑が眼前に迫っている身を以(も)って、牢屋の中で婚礼しようとする。しかもその願いは唯夫婦という名を以って刑場に上ろうと云うに過ぎ無い。何というその心中の憐れなことか。素より小桜露人と弥生とは、幼い頃から共に育ち、一日も分かれた事は無く、従軍すらも共にして、冬の半夜(よは)にも砲車の影に抱き合って眠り、互いに身を以って暖め合い、他人も咎めなければ自らも怪しま無い程の仲なので、この様な二人が、夫婦とならずに終わるだろうとは思われず、露人が居ても立っても居られない心から、愛の情を起してこの様に云うに至ったのは誠に天然自然な事だ。

 露人の心には我より外に弥生が愛を移す人があるだろうとは思う事も出来ない。暇も人も無く、誰かを見初(みそ)める筈も無いので、我が身がこの婚礼を望む様に弥生も亦之を願うに違いないと、一も二も無く思い詰めて、少しも躊躇の念が無かったのに、どうした事か弥生は既に愛を與(ゆる)した人が他に在ると云う。露人は気も転倒するばかりに驚き、

 「ヤ、ヤ、私より外に心を與(ゆる)した人が有る。其れは誠か。本当か。コレ」
 弥生は身を裂くより辛いけれど、茲に至っては、言わ無い訳にはいかず、又漸(しばら)くして、
 「幼い時から一緒に育ち、此の通り艱難を共にして居る貴方へ、この様な事を言っては罰が当たりますけれど、イイエ、貴方を愛さない訳では有りません。ハイ、愛します。幼い時から互いに可愛い懐かしいと慕った愛は今も変わらず、死んだとしても変わりませんが、貴方は変わら無い此の愛に満足せず、真の愛を與(あた)えよと仰るのです。

 其の愛は起こりません。ハイ、不幸にも外の人に向って起こり、自分で自分を如何(どう)する事も出来ません。今迄は此の様な事では成ら無いと思い、如何(どう)にかして断念(あきら)めたいと心を制して居ましたけれど、悪いと思う丈猶(な)お一層強くなり、貴方には打ち明けなければ成らない事になりました。外の人に心を與(あた)え、爾(そう)して貴方を夫とすれば心で貴方を欺(あざむ)くも同じ事です。其れは私には出来ません。

 若し夫を持つとすればその人の外は持たれません。如何(どう)か堪忍して下さい。私は明日にも死刑と為る身ですので、死ねば何も彼も是までです。この様に打ち明けて死ぬのがせめてものお詫びです。誰の妻にも成りません。弥生は矢張り貴方の親友で終わるのです。」
と、真心の有る儘(まま)を言い出すのは真に隔て無い仲である為に違いない。

 言い出した弥生の辛さも、言うまでもないことだが、聞く露人は猶ほ更に腸(はらわた)を断つ想いで幾度か顔の色を変えたけれど、心に一点の邪思も無いので、恨むのも愚痴、悲しむのも卑怯と思い、恨みがましい一語をも発せず、聞き終わって暫(しばら)くの間、前額に汗を浮かべたまま静まり返って動きもしない。深い水には波も無い様に、真に深い絶望には声も無く、涙も無い。やがて彼、先程の熱心だった時に引き換え少しの響きも無い、死んだ様な声で、非常に緩(おだ)やかに、

 「フム、爾(そう)で有ったか。---死ぬのは私だ。和女(そなた)は生きてお出で。」
 弥生は余りの気の毒さに、寧ろ打ち明けなければ好かったものをと、今更後悔する程であったが仕方が無い。声無く涙ない露人に引き換えて、ヨヨと我が声に咽(むせ)びながら、
 「イエ、イエ、貴方こそ生き存(なが)らえ、勤王の為に尽くさなければ成りません。私の様な者が一人助かったと言って何と成りましょう。貴方ならば再挙も出来、戦場や刑場に死んだ同志の仇を返す事も出来ます。」

 露人は此の言葉も耳に入らず、猶(なお)も考え込むばかりの様子だったが、急に首を挙げ、
 「和女(そなた)の愛すると云うのは誰だ。」
 猶も響きの無い声で問うた。
 此の問いの来るのは必然の事ではあるが、弥生はぎょと行き詰まった様子で、忽(たちま)ち咽(むせ)びの声を止め、青褪(あおざ)めた顔を上げたが、今は前の様に淀み無く打ち明ける勇気は無い。小桜は暫(しば)し待って再び、

 「その人の名ーーーは、是だけは聞かなければならない。」
 弥生は幾度か躊躇した末、囁(ささや)くよりも猶(なお)微(かす)かな声で、答える言葉は、
 「縄村猛夫」
と言う。僅(わずか)にしか聞き取れない。露人は喪心の余り驚く力をさえ失ったか、相も変わらない静かさで、

 「フム、敵軍縄村中尉だな。敵の士官に露人を見替えたのか。」
と独り語の様に云い、初めて淋しい嘆息を洩らした。



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