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武士道 一名「秘密袋」   (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.2.10

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  武士道後編 一名「秘密袋」           涙香小史 訳

               第五十五回

 幼い頃から兄弟も及ば無い迄に親しんで今も猶(な)お其の親しみの変わって居ない小桜露人を愛することが出来なくて、一朝夕の近付きである敵の士官縄村中尉を愛するとは、是(これ)縄村中尉と弥生との間に、百年共に住む人の間にすら有り得ない程の波瀾(はらん)があって、知らず知らず弥生との間に愛情の根を卸(おろ)した者とは云え、「恋」は往々にしてこの様に、その生ずべからざる所に生じ、向うべからざる所に向う例であると見える。

 唯露人は中尉と弥生との間に一方なら無い波瀾(はらん)が有った事は聞いて知っていたが、我が身と割くにも割くことが出来ない仲の弥生が、特に物事を良く弁(わきま)え、又勤王の心が極めて強い身を以って、敵の士官に向かい、我にも許さない愛の情を起こそうとは夢にも思い寄ら無い事なので、殆(ほとん)ど驚く力さえ喪(うしな)うまでに驚いたのは無理では無い。

 弥生は露人が、僅(わず)かに嘆息を漏らす外、泣きも怒りもする事が出来ない程の様子を見ては、我が身を切られるよりも辛く、
 「本当に堪忍して下さい。此の愛は悪事です。私は良く承知しているのです。ハイ、その人を愛するのは悪事を働くよりも悪いと心では知って居ますが、愛が自分の心よりも強く、消すにも消す事が出来ません。此の上は唯死んで此の愛を消すばかりです。命と共に悪事同様の此の愛が消えるかと思うと、私は死刑の来るのを楽しんで待っています。」

 素(もと)より自分に背(そむ)き恩人に背き、国王にも背く非常に苦しい恋なので、死する外には之を逃れる道は無い。露人は猶(なお)も力無く、
 「シタがその人は和女(そなた)がそこまで愛して居るのを知って居るか。」
 弥「イイエ、若しあの方に私の心がこの様なのを知られたならば、私は恥かしくて、ハイ、羞(は)じて死にます。」

 露「シテ、その人も和女(そなた)を愛するのか。」
 弥「イエ、イエ、愛しません。如何(どう)してあのような方が私などを愛しましょう。」
と之も亦(また)力無さそうなのは、自ずから報いられ無い愛情と思い詰めるせつなさに、胸に隠している悲しさを我知らず洩らす者かと思えば、其の心根がいじらしい。

 露「でもあの人が愛さないなどと如何(どう)して分かる。」
 弥「ハイ、一日も二日も共々に旅をして、其の間に愛の為かと思う言葉は一言も発しません。その様な素振りさえも有りません。唯同胞を救はなければ成ら無い、義務の為に私を助けたのです。私がたとえ乞食の子で有ってもあの方は同じ様に助けたのでしょう。」
 露「イヤ、和女(そなた)を愛さない筈は無い。愛の心を起さずには居られ無い筈だ。」

 弥「イイエ、もうこの世では再び顔を合わす事が有りませんから、私に向い愛の心を起す筈は無く、私の愛をさえ知らずに終わります。」
 聞いて来るうちに露人は流石勇士の健気な心で、何もかも諦(あきら)め尽し、後の事まで思案を定めたと見え、今迄の打ち萎(しお)れていたのにも似ず、殆ど裁判官の言葉の様に、一切の情を滅却した非常に確かな語調で、

 「イヤ、和女(そなた)は生き存(ながら)えて居なければならないと先程も私が言ったじゃないか。再び無事に其の人に逢ふ時も遠くは無い。この様に言う中にも縄村中尉は和女(そなた)を助ける為努力して居るで有ろう。」
 弥「イエ、貴方こそ助からなければ成りません。黒兵衛が尽力して居る様だと仰ったでは有りませんか。アノ腕八と言う人に向かい、此の牢から逃がして呉れれば縄村中尉と共々に秘密袋の中を知らせるとこう言えば好いのです。必ず彼が助けてくれます。どうか貴方こそ生き存(ながら)えて。」

 露「イヤ、私は和女(そなた)を助ける様に腕八に頼み込む。和女は助からなければならない身。私は死ななければならない身だ。」
 弥生は情け無い叫び声で、
 「貴方が助から無いなら何で私が一人生き残れましょう。ハイ貴方が生き存(ながら)へて下さるなら私もその気に成りますけれど。」
 「イヤ、弥生、其れは意地悪と言う者だ。和女(そなた)が人の妻に成るのを、永く生きて見て居ろと云う様なもの。」

 弥「イエイエ、私は誰の妻にも成りません。貴方と共に助かれば、悪事も同様な此の愛は心に隠し、生涯誰にも知らさずに終わります。」
 露「フム、私に気兼ねして生涯を尼同様の身となって泣いて暮らすと言う者だ。和女(そなた)がその様な心を起すだろうと思うからそれで私は死ななければ成ら無いと云うのだ。小桜露人とも云われる者が、自分の恋が叶わない為に、相手の女を生涯尼法師同様に送らせたと言われて、世の人に何の顔が向けられよう。

 私が此の儘(まま)死刑になれば、和女(そなた)は当分の中悲しくも有ろうけれど、去る者は日々に疎(うと)しの譬(たと)え、遂には忘れる時がある。私の事は忘れ尽くし、如何(どう)か世間の婦人同様に、思う人の妻と成り、可愛い子の母とも成り余命を長く暮らしておくれ。流石に小桜露人は未練の念に牽(ひ)かされず、能く武士の心を以(も)って、武士らしく死んだと世間の人に言わせておくれ。和女(そなた)が助から無いなどと言っては私は死ぬに死なれ無い事になる。」
と言って、真に一点の未練も無く、声も震わずに説き諭(さと)すのは、情あって意地ある武士の道を守る者にして、最早(もはや)動かすことは出来ない。

 弥生は悲しさに身を悶(もだ)え、
 「貴方を殺して、一人私に助かれとは、如何(いか)に其れが武士の道だからと言って何で私が従われましょう。貴方はこの世に二人と無い私の恩人では有りませんか。兄よりも猶(な)お義理の有る貴方を残し何で私がーーー。」
 言い来る語の終わら無いうちに、外に居る腕八は聞くだけ聞き、全く小桜露人が少しも袋の秘密を知ら無い者と見て取ったか、突然戸を開けて進み入り、

 「サア、面会の時刻が切れました。」
と言って、早や引き立てようと露人の肩を捕らえた。弥生は我を忘れ、
 「先ア、待って。」
と言って引き止めようと露人に縋(すが)り付くのを、露人手を延ばして遮(さえぎ)り留めながら、

 「弥生、さらばだ。幸福に世を送れ。」
 唯此の一語を残しただけ。そのまま引かれて此の室(へや)の外に出て行った。腕八は亦(また)も戸に錠を卸(おろ)し、容赦も無く露人を送り去ろうとすると、この時室(へや)の中で撞(どう)とばかりに板床の上に重く倒れる音が聞こえた。アア是は弥生が気絶して倒れたのだ。



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