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武士道 一名「秘密袋」   (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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  武士道後編 一名「秘密袋」             涙香小史 訳

               第七十回

 若(も)しその身一人ならば幾時間水中に在っても、溺れ死する黒兵衛では無いが、両肩に一人づつ人を縋(すが)らせてはどうする事も出来ない。かって人の助けなど頼んだ事の無い剛情我慢の口を以(も)って、
 「助けて呉(く)れ。」
と叫ぶ迄に到ったのは真に必死の場合と云うことだ。

 しかしながら彼は己(おの)が声の終わると共に忽(たちま)ち心附いて後悔した。この様に叫んでも此の暗い河の面に、此の声を聞き附ける者などある者か。万一有るとすれば、舟で帰り去る溺刑執行人等に違いない。彼等に聞き附けられるのは、救い上げられて更に殺し直される迄の事だ。自ら溺れて水中に死するよりも口惜しい。

 若(も)し只(ただ)縄村中尉に此の声が聞こえる事が有れば、或いは助けられるかも知れないが、水轟々として限り無い此の大河なので何で、都合好く我が思う人に我が声が聞こえる事を期待する事が出来ようかと、早くも我が愚かさに心附いたが、之に心附いたのは最早(もはや)助かるべき道が無い事に心附いたのだ。

 流石の勇士もどうしても死するべき時が来た事を知り、俄(にわ)かに手足の筋々緩み頽(くづ)れる思いがして来て、一尋(ひとひろ)でさえも進む事が出来ない。しかしながら戦場に死す事と異なり、人の知ら無い闇に死んで闇の中に葬られるかと思うと、日頃死ぬ事を鴻毛より軽く考えている男も心地好く死ぬ事は出来ない。

 「エエ、せめては片手丈でも自由が利けば此れしきの水には溺れ無いが、両方へ斯(こ)う縋(すが)られては。」
と心の中で呟(つぶや)くに連れ、俄(にわ)かに思い立つ一計は弥生露人両人の中、いずれか一人を捨てる事だ。捨てるのを可愛そうに思って三人共に死ぬよりは心を鬼にし、一方を捨て二人だけ助かる方が未だしも慈悲である。弥生を捨てようか露人を捨てようか。

 弥生はか弱い女であって、たとえ此の後勤王の為に働く事が出来ると言っても手づから敵を屠る様な力があるのでは無い。一軍に号令する露人の命とは勿論比べ物にも成らないので、弥生を捨てる事にしようと窃(ひそか)に呼び起こす決心は自ずから弥生に通じた者か、弥生はやや確かな音調で、

 「私を捨てておくれ、私を捨てなければ露人様が助かりません。」
と云う。露人も之に応じて何事をか呟(つぶや)いた様子であるが、彼は弥生よりも一層疲れたと見え、其の声も聞き取れ無い。
 真に是は危急の極である。今一髪の間あれば、弥生は黒兵衛の肩を離れただろう。此の時忽(たちま)ち闇の中に声がして、

 「何処だ。何処だ。今助けて呉れと言ったのは、」
と云う。是は確かに縄村中尉の声である。黒兵衛は直ちに答えて、
 「茲(ここ)だ、茲だ、少し左の方へ漕いで来い。」
と云ったが、之と共に思案を改め、
 「イヤ、弥生様、もう貴方を捨てるには及ば無い事と為りました。友人がが救いに来たから三人とも助かります。」

 露人は息も絶え絶えな声で、
 「友人、とは、誰だ、」
 黒「先に我が軍の捕虜と為った縄村中尉です。中尉は私と打ち合わせて有るのです。エエ、この様に言う中にも早く漕ぎ寄せて呉れなければ三人とも死んでしまうが。」
と云う。真にこの言葉の通りである。今一分が経てば中尉の舟が仮令(たとえ)この所に漕ぎ来ても助けるべき人は無くなってしまう。

 中尉の声は再び聞こえて来た。
 「直ぐに行く。気を確かに持て。」
 黒兵衛は之で大いに力を得、将(まさ)に沈もうとしていた身を引き浮かべたが、露人は之を幸いとは思う事が出来ない。縄村中尉とは何者だ、弥生の心を占めて仕舞った我が恋の敵である。敵であって而(しか)も全く我に勝った者なので我何時までも之を恨むものでは無いが、其の人の恩を受けて、その人を我が命の親とすることは情け無い限りである。

 「エエ、この様に辛い場合と為れば最う是で沢山だ。」
と我が身を嘲(あざけ)ると、其の声が弱い為、黒兵衛には聞こえなかったが弥生には聞こえて、電気にでも打たれた様に其の身を震わせた。是も実に身を切られるよりも辛い。愛を縄村中尉に寄せたからと言って、露人の永い恩は中尉の一朝一夕の恩に比らべられるものでは無い。

 生きて中尉と露人の間に立つ事は、到底自分自身にとって堪(た)える事が出来ない事なので、我が愛を中尉にも知らさず、露人の心をも傷つけずに早くこの世を去ってしまおうと、朝な夕な死を神に祈っていたのだが、今は其の願いが叶わずに情と恩との間に介(はさ)まり、情には背き、恩には傷つける時が来て仕舞って身も世も無い思いをしていると、中尉の舟は既に此の所に漕いで来て、中尉手ずから弥生を舟の上に引き上げた。

 次に黒兵衛の手を取ると、
 黒「イヤ俺より先に主人を助けて呉れ。俺は船舷(ふなばた)に手を掛けて斯(こう)して身を休めれば少しの中に疲れを忘れる。」
 中尉は之を尤(もっと)もとし、黒兵衛の肩に倒れる露人の方に手を延ばすと、櫓を取っている腕八、この人々を助けてはと非常に驚く様子で、

 「中尉、この小さい舟で爾(そ)う沢山は助けられません。最(も)う舟が沈みます。」
 中尉は之を耳にも入れず、
 「サア恩人小桜露人君」
と呼び再び手を差し延べると、露人は黒兵衛の肩の後ろから重い首を揚(もた)げたけれど、助けられる心は無い。唯死際の務めだけを果たそうと決心したのだ。それで唯将(まさ)に絶えようとする声を絞り、

 「多謝、多謝、中尉おさらば、弥生さらば、---、中尉よ、弥生の心を察し、妻と為して弥生の生涯を保護して下さい。」
と云い、此の一語を憂き世の名残とし、自ら黒兵衛の肩を離れ、深さ知れ無い流れの底に沈み去ったのは、是も傷(いた)はしい《気の毒》限りである。



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