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武士道 一名「秘密袋」   (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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 武士道後編 一名「秘密袋」              涙香小史 訳

               第八十回

 今と為っては一切の秘密は唯浦岸老人の手の中に在り。若し老人を此の儘(まま)に死なせれば、薔薇(しょうび)夫人の財産も何(いず)れの所に隠して有るのか知る方法は無く、可惜(あた)ら幾千万と数知れ無い大金を地中の物と為って終らせる事となるだろう。此の後弥生を外国(とつくに)に落として遣るにせよ、其の生涯の計(はかりごと)を定めるのは全く此の大金に在る。之が無くては困難が益々困難になるだろう。

 それに縄村中尉には大金の所在よりも更に気に掛る秘密がある。それは弥生の身の上である。弥生は何人の子にして何の姓を名乗るべき者なのか。心栄(こころばえ)と云い広い世にもこの様な女の二人とは有るとは思われ無い程であるが、唯其の素性が明らかでは無い。今迄の所では宛(あたか)も慈善家に拾い上げられた捨て子の様な者である。

 真逆(まさか)に氏も素性も無い下賎の親にこの様な娘が生まれるとは思はれ無いので、由緒ある人の種を受け由緒ある人の腹に宿ったに違いないとは言え、父の名も母の名も分からなくては、人並みの人とは言い難く、世間に対して我は誰某(だれそれ)なりと名乗る権利さえ無い者だ。

 人の身として是れ程の不幸は無い。弥生自ら口にこそ出ださないが、きっと情無(なさけな)く思っていることだろうと中尉は之を我が身の様に憂い、大金の所在よりも切にこの事を問いたいと思っているのだ。 浦岸老人が果たして之を知っているのかいないのか定かでは無いが、薔薇夫人から大金の秘密をまで任された此の人さえも、之を知ららければ、他に之を知る人の有る筈は無い。だから中尉は老人の死際なりと聞き、他の人よりも驚いて、一同と共に其の小屋に馳せ付けながらも、殆(ほとん)ど一刻を争う気持ちで、小僧呂一に向かい、

 「それで老人は未だ口は利けるのか。何時から病気で医者は誰に係って居る。」
などと畳み掛けて問うと、呂一は、
 「ハイ、何時からだか知りませんが、私が此の小屋へ来た時は、もう先に見た様子とは違い、大層衰えた病人と為って居ました。ナニ別に之と云う病気では無く、全く年の為(せい)で、命が自然と尽きて来たのです。油が尽きて灯火が独りで消える様なものです。幸い先刻、此の所をグランビル市の使い屋の者が通りましたから、私は保田老医を至急に呼んで呉れと其の者に頼みました。

 今迄何の医者にも掛って居ないと言う事ですが、もう保田老医が来る頃です。私は先刻から待って居ましたけれど、其の中(うち)にも老人の様子が変り、益々死際の様に見えますから其所等(そこら)までと見に出た所でご覧の通りお目に掛ったのです。併し老人は自分で医者などに見て貰いたくは無いと見え、医者の事は少しも言わず、唯弥生さんや貴方の事ばかり言って居ますから、貴方がたの顔を見れば、保田老医に逢うよりも喜びましょう。」

と、急いで居る間にも非常に綿密に物語、やがて小屋の入り口に着くと、中尉は従者鉄助を顧み、
 「貴様は腕八と共に、外で一同の馬などを番して居れ。二間か三間しか無い小屋へ大勢入っては病人が迷惑する。」
と云い、弥生を先に立てて座に上ろうとすると、弥生も心に様々の思いが有り、躊躇(ためら)って進むことが出来ない様子なので、更に中尉自ら進み出て、先の夜身を温めた彼の囲炉(いろり)の辺に行くと、今は気候の寒く無い時なので、焚き火は燃え落ちて灰の中に二、三点の光を留め、窓の下に置いた灯火は、人の命と同じく風前に危うく揺れた。

 浦岸老人は何(ど)こに行ったのか、影さえ見えないので、
 「老人、老人」
と呼び立てると、
 「誰だ」
と云って暗い次の間から這いながら出て来たのは、是れ其の老人である。

 成る程小僧呂一の言った様に、老いて命の自ずから尽きようとする者で、是と云う病が在る訳では無いが、先に見た時の矍鑠(かくしゃく)した様とは違い、顔に少しの血色も無く、身に起き上がる力も無い。中尉は励ます声で、
 「老人、私の顔を見忘れたか、縄村中尉だよ、お前が逢いたいと言う弥生と一緒に来たのだよ。」
と云うと、

 「エ、エ」
と叫んで老人は驚き喜び、身をもがいて這い寄って、漸(ようや)く中尉の足許の辺まで来て、宛(あたか)も枯れ木の折れる様に、床の上に崩(くず)れ折れて自ら起き上がることすら出来なかった。



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