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武士道 一名「秘密袋」   (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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  武士道後編 一名「秘密袋」             涙香小史 訳

               第八十四回

 「夫人の居間の入り口まで随(つい)て来いとは実に恐ろしい命令です。死刑の場に引き出される罪人でも此の時の私ほど辛い思いは仕無いでしょう。私は唯事がどの様に終る事か、全く軽嶺家の断絶する時が来たのかとこの様に気遣いましたが、侯爵の言葉に背く事は出来ません。ただ従う一方です。侯爵は殆(ほとん)ど私を引き立てる様にして家の中へ入り、廊下を伝って夫人の居間の方へ行きましたが、素より静かな家内の事ですから誰にも認められずに、夫人の居間の入り口へ着きました。

 「これ浦岸、貴様は茲(ここ)に立って此の入り口を番していろ。譬(たと)えどのような事が有っても茲を立ち去っては成ら無い。又何人が来ても此の部屋に入れる事は出来無い。幸い茲まで何人にも認められなかったから、己(おれ)が帰国したと言う事は何人にも話しては成ら無いぞ。是だけの言い附けに背けば射殺すから爾(そ)う思えと、侯爵は小声で私へ言い付けました。

 此の時の侯爵の様は全く死を決して居ること、其の一挙一動に現れて居ましたから、私は益々恐ろしく、体中ぶるぶる震える許(ばか)りで返事する声さえも出もしない。此の命に従うのが家来の役目か、それとも諌(いさ)め宥(なだ)めるが好いのかと、この様な疑ひは起こりましたが、諌め宥める術(すべ)とても有りません。

 其の中に侯爵は、
 「好いか浦岸、きっと言い付けたぞ。」
と念を推し、突(つ)と戸を開いて部屋の中へ入りました。直ちに其の戸を閉めました。部屋の中で何(ど)のような事が有ったか、素(もと)より私の知る所では有りませんが、侯爵の入ると共に薔薇(しょうび)夫人の恐れ叫ぶ声と密夫なる海軍大尉の驚く声が聞こえました。

 次は侯爵の怒った声で凡そ五、七分間も大尉と何か言い合って居る様に聞こえましたが、突然其の声が止まって、又侯爵が部屋の外に出て来られ、再び私の首筋を捕(とら)えました。
 「コレ浦岸、部屋の中へ来い。」
と仰(おっしゃ)ります。私は風に吹かれる木の葉の様に戦(おのの)き、少しも抵抗の力も無く、侯爵の引き立てる儘(まま)、部屋の中へ引き込まれましたが、侯爵はご自分で固く戸を閉め、私を戸の真ん中の前へ立たせました。

 此の時私が見た此の部屋の有様は、凄(すご)いとも恐ろしいとも譬(たと)え様が無く、今も尚私の目に焼き付いて、私は思い出す度(たび)目前に見える様な気が致します。死んでも忘れる事は出来ないと思います。
 薔薇夫人は部屋の一方にある長椅子の上に、両手を顔に押し当てたまま俯伏(うっぷ)して、咽(むせ)び泣きに其の背中へ波が立って居ます。

 大尉と侯爵とは命の遣り取りを始める間際と見え、双方とも外被(そとぎ)を脱ぎ、上半身裸とズボンだけと為り、手に長剣(サーベル)を持っています。此のサーベルは侯爵が決闘の用意として同じ物を二本、外套の下へ隠し持って居たのです。

 今の間に決闘の相談を極めたと見え、此の長剣(サーベル)の一本を侯爵から渡せば大尉も猶予せず受け取り、双方とも先ず空を切って振り試して居ます。其の眼は互いに火の様に燃えて居ます。大尉は剣を振り終わって、独り言の様に、
 「勿論軍人と軍人の間なので、決闘に終る外は有りません。」
と云い、侯爵は私の方に振り向き、

 「浦岸、貴様は老後まで安楽に暮らせる様に己(おれ)が夫々手当てをして有る。己の言い付けは何の様な事でも守らなければならない。能(よ)く聞け。全体この様な好夫(かんぷ)姦婦(かんぷ)は泥棒犬を刺し殺す様に、刺し殺して遣って沢山だが、不幸にも女には軽嶺侯爵の妻と云う公の肩書きが有る。肩書きに免じて犬猫同様に取り扱う事も出来ず、己(おれ)も我が身分に対し名誉に対し、みだりに人を殺すような卑劣な手段も出来無いから、極めて公平に決闘して遣る事にしたが、決闘の公平を証明するには介添人が要る。

 併し此の決闘は誰にも知らせる訳には行かず極めて秘密に行うのであるから、他に介添人を求めることは出来ず、貴様を以って介添人とする。貴様は其の戸へ背を向けて立ち、公平に見張っていろ。一方の介添え人はアノ汚れた女だト、斯(こ)う仰(おっしゃ)って又侯爵夫人に向かい、コレ女、其の方の夫が其の方の密夫を殺すか、其の方の密夫が其の方の夫を殺すか、何(ど)うせ一方が一方に殺される場合となった。

 何方(どっち)でも一方死して此の世にに無き人となれば、其の方は板挟み同然の、今の偽り有る地位を免れ、一身の処分も定まるから、有り難いと思い、此の決闘を見て居ろと、それはそれは苦が苦がしくお言ひ渡しになりましたが、此の言葉を聞く薔薇夫人は天罰を受けるよりもっと辛いだろうと思われました。



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