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武士道 一名「秘密袋」   (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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  武士道後編 一名「秘密袋」             涙香小史 訳

               第九十回

 縄村中尉は小桜露人(つゆんど)の為に、弥生と手に手を握り合わせられ、唯黙して露人の為すが儘(まま)に従い、嬉しいのか嬉しくないのか顔に何の色をも現わさなかったけれど、其の現さ無いのは心が動か無い為では無かった。顔に現す事が出来る様な普通の嬉しさでは無く、顔にも言葉にも余る程の嬉しさだったからだ。

 その上、露人も浦岸老人も今死のうとするばかりの容態で、病苦を忍んで物語る者なので、其の眼前で己(おのれ)のが心の内情に分け入って、独り我が喜びを味わい、顔に言葉に現して嬉しがる様な事は、人の情として行う事が出来ない所だ。

 弥生の容貌と言い、気立てと云い、今までの振る舞いと言い、世に類(たぐい)稀なもので、凡そ木石で無い限りは、之に心を動かさ無い者が居るとは思われ無い程なのに、況(ま)してや中尉は何度も弥生と生死の苦労を共にしことなので、弥生を思うの情は何人よりも切ではあるが、末(すえ)は必ず小桜露人の妻になるべき身に違いない思い、自ら制して我が心を動か無いようにして居た。

 先に南都の大川で露人が水底に沈み込もうとする時、中尉の耳に囁いた彼の異様な言葉を聞いて後は、弥生が我が身を憶(おも)うのも我が身が弥生を憶(おも)っている事と同じなのを知ったけれど、彼の言葉を残した露人の心中を察しては、却(かえ)って益々我が心を制しなければ、露人の死を幸いとする事に当たる様な場合と為り、その上露人の真の生死も未だ分からなかったので、尚更弥生に対して慎みを深くし、燃える様な思いを押さえて、情火の為に焦死する様な苦痛を忍んで居たが、今は露人と弥生とが兄妹である事が分かり、露人の心晴れて其の口からこの様な言葉を聞くとは、世にこの様な嬉しさが又と有ろうか。

 日頃千軍万馬の間を馳せ、九死の境へ落ちるとも顔色を変えることの無い身ではあるが、此の嬉しさには面色を土よりも青くし、何か一言感謝の意を述べようとしても其の声が咽喉を出ない。空しく色醒めた唇を震わすばかり。弥生の方も同じ思いと見え、中尉と握り合わされた其の手が戦(おのの)く外には何の意をも現す事が出来ない。若(も)し人、悲しみの為に石に化すると言い伝えられる様に、嬉しさの為にも石に化することが有るすれば、二人の如きは殆(ほとん)ど石に化そうとしている者だろう。

 暫(しば)しが程小屋の中は寂然(じゃくぜん)として、静かであったが、浦岸老人の声で再び波が起(た)ち始めた。老人は死のうとして次第に深く閉ざして来る眼の霞を掻き消そうとする様に、己(おの)が目の前を手で払い、

 「アア露人様が存生(ぞんじょう)とは今が今まで知らなかった。サプヂーの一戦に勤王軍が皆殺しに逢い、僅(わず)かの生き残りの人々も捕らわれて南都へ送られ、夫々(それぞれ)死刑に処せられたと聞いたので、無論この世の人では無いだろうと思っていましたが、夫(それ)が先(ま)ア、所も有ろうに、私の此の家へ来て居らっしゃるとは、成るほど南都の大川で溺刑に処せられたのが運能(よ)く助かったのですネ。

 それも是も天運です。貴方が呂一に連れられて此の家へ来た時、私は唯通例の旅人で、途中病気に襲われた者だと思った丈です。貴方が存生と知れば、貴方は先代の小桜伯爵の後を受け、弥生様の相続を監督為さるべきお身の上ですから、私は縄村中尉よりも貴方を探し求める筈でしたが、貴方を死んだ者と思い詰めた為、唯中尉の事をばかり言い暮らして居りました。

 中尉がかって弥生様と共に此の家へ立ち寄られたので、一つには中尉にさえ逢えば、弥生様の事も分かるだろうと思い、又二つには、薔薇(しょうび)夫人が昔中尉の叔父縄村大尉から財産の四分の一を、娘松子の婚資として贈られた義理に対し、若し弥生も小桜家の人々も死に絶えて我が遺産の遣場(やりば)が無いような節には縄村家の人に贈り、

縄村家の人も死に絶えて居る場合には国王へ寄付して呉れと斯(こ)う言い付けられて居ますから、是非とも中尉に逢はなければ成らないと私は夫(それ)ばかり祈って居たのですが、夫(それ)が先ア、悉(ことごと)く思う通り、露人様も、弥生さまも、縄村様も、此の家へ落ち合うとは、全く天の引き合わせで、是ほど喜ばしい事は有りません。本当に安心しました。」

と云い、ホッと息して、後の言葉が絶えようとするのは、安心の余り気落ちして、言うべき事も言い終わらずに死のうとする者では無いか。今まで嬉しさに酔った様に成って居た中尉は、そうと見て、日頃の健気なる心に返り、其の声を励まして、
 「コレ、老人、大事な事を話残して気を落としては了(いけ)無い。其の薔薇夫人の遺産と云うのは何処に有る。」

 老人は漸(ようや)く首を挙げ、
 「イヤ、未だ死には致しません。話さなければ成ら無い事が大分有ります。話終る迄は大丈夫です。」
 露人も病苦ながらに、是から弥生の身の安全を計るのは全く其の大金に在ると思っているので、心配で仕方が無い様に、
 「シタが老人、其の大金は何処に隠して有る。」
 老人は今までよりも一段気力の減じた声で、
 「大丈夫です、金網に入れて此の湖水の底へ沈めて有ります。」

 さては老人が多年此の緑の湖を番していたのは、実は薔薇夫人の遺産を番する為だったと見えた。



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