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武士道 一名「秘密袋」   (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.3.18

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  武士道 後編 一名「秘密袋」                   涙香小史 訳

               第九十一回

 昔から天性用心深い人が財貨(たから)を様々の所に隠した例は有れど、金貨を鉄の網に入れ深く湖水の底に沈めて有るとは類稀(たぐいまれ)な事柄である。薔薇(しょうび)夫人が生まれ付き非常に用心深かかった事は総ての振る舞いから察せられるが、ここまでとは思わなかった。これほどの工夫を費やさなくても外に安全の道は幾等でも有ったろうにと、一同の怪しむ様子を老人は見て取ったが、衰へ果てた呼吸の中から、

 「イヤ、夫人がこの様な迂(まわり)遠い事をしたのは夫人の心に止むを得無い訳が有ったのです。夫人は娘松子が私生の児を産んだ事を此の上無い家の恥辱と思い、そのまま秘密を押し隠して仕舞いましたから、生まれた子の届けもせず、それで弥生様は、御可愛そうに無籍です。戸籍の表へ付いて居ません。

 私生の子は私生の子と届け出て、私生ながらも法律の上に人一人と認められるのが世間通例の事ですのに、弥生様ばかりは何処の戸籍にも無く、法律の目から見れば、この世へは生まれて出無い人です。夫(そ)れですから通例の手続きで財産相続の証書を書き残した所が、其の証書は全く無効で、是々の財産を弥生に譲ると叫んでも、弥生と云う人がこの世に生まれて居ない人ですから法律で取り上げは致しません。

 それですから何とか工夫を定めなければ、夫人の死ぬと共にその財産が、夫人の憎む里方の悪人共へ移るのは自然の話し、何(ど)うしてもそれを防ぎ、無事に弥生様の手へ渡る様にしなければ成らないと、様々に工夫した末、此の私へ托して置くと言う事になり、私を呼びに来ました。

 お可愛相に夫人は私より外に大事を托する下僕も無く、その上に私には所夫(おっと)侯爵の死際の事までも知られて居ますから、外の秘密を隠しても無益と何もかも、腹蔵無くご相談に成りました。尤(もっと)も私が深く侯爵の死際の秘密を守り、命に替えても口外しないと言ふ程にして居ましたから、其の辺を見て自然此の男なら大丈夫だとお思い成(なさ)った者と見えます。」

 ここまでは言い続けて来たが、最早言い続ける気力も無い様子で、首を垂れて、其の虫の音ほどの呼吸(いき)を、喘(あえ)ぎ喘(あえ)ぎに継おうとするので、縄村中尉は、まだ聞くべき事を聞き終わって居ないうちに死なれては一大事と、自ら老人を抱いて声を励まし、
 「コレ老人、気を確かに、コレまだ聞かなければ成らない事がある。湖水に沈めた其の大金は今以て無事だろうか。」

 老人は死際の目を見張り、
 「オオ、無事だ。---無事だ。----此の浦岸が命に替えてーーー番をして居たのだ。時々泥棒が来たけれど、其の泥棒はーーー他だ湖水の魚を盗み取ろうと言うだけで、ーーー底に大金が有るなどは誰も知ら無い。ーーー爾(そう)して其の魚泥棒さへーーー私が其の度に酷く懲(こ)らしめて遣(や)ったから、ーーー後には浦岸老人が厳しいと言ってーーー一般の噂となりーーー誰も湖水へ近づかない程になった。ーーーナアニ近づいても大丈夫だ。---ただ沈めて有るのでは無い。引き上げるだけの秘密を知らなければ。ーーー誰にも引き上げる事は出来無い。ーーー私が此の儘(まま)死んだとしてーーー爾(そう)サ、貴方方でも、---取り出す工夫を聞かなければーーー取り出す事は出来無い。」

 能(よ)くも用心に用心を重ねたものだ。湖水の中に在ると知っても、取り出す秘密を聞かなければ取り出す方法が無いとは。なる程、人の大事を托される者は、この様に心掛けていなくてはいけないのだと私は密か感心したが、それよりも先ず気に掛るのは、其の引き上げ方の秘密である。夫(そ)れを聞かなければ今まで長々と聞いた事は何の結果も無くして終る訳なので、中尉は再び声を励まし、

 「シタが老人、其の引き上げ方を話して呉れなければ。」
と引き立てたが、老人は僅(わず)かに聞こえるくらいの非常に細い声音で、
 「此の湖水は深いから何処に有るか他人には分から無い。---分かったところでーーー船を浮かべて引き上げるにはーーーナニその様な少しの金貨ではない。---船が金貨の重みで底へ引き込まれーーー金貨は上がらずに船のほうが沈んでしまうワ。ーー鉄の網でーー一纏(ひとまと)めに沈めて有るからすこしづつ、少しづつ引き上げる事は出来無いサ」

 アア老人は最早浮世の声は耳に入ら無い。この様に語る言葉も中尉に向かって語っているのではなく、実は唯我が心の中で、我が心を独語しているだけなのだ。中尉の事をも弥生の事をも少しの間に忘れ尽くし、其の身の託せられた大秘密だけを思いながら、冥府へ入り行こうとする者である。而(しか)も其の独語さえ到底聞き取ることが出来ない迄に細くなったので、中尉はもどかしく、

 「コレ、老人、老人」
と叫んだが答えない。
 推(お)しても応ぜず、秘密の肝腎の部分を語り残して、其の儘(まま)絶命した者と見える。



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