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武士道 一名「秘密袋」   (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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  武士道後編 一名「秘密袋」             涙香小史 訳

               第九十六回

 嬉しさの為か、将(は)たまた夜風の冷ややかな為か、腕八は我にも無く身震いしながら上手の樋の口《取水口》に行き、其の有様を検(あらた)めて見ると、此の頃の雨天続きに諸川の水、嵩(かさ)を増したので浦岸老人が湖水が溢れるのを用心した者と見え、樋の戸は既に閉ざして有った。是ならば唯下手にある排水口を開くだけで、我が目的は達せられると、更に土堤(どて)を反対の方に廻って行くと、如何(いか)にも保田老医の話しを盗み聞きした通り、幾間をか隔てて三個の標石が有った。

 其の石の近辺を、彼方此方(あなたこなた)と調べてみると生え茂る草に埋まって、太き鉄梃(かねてこ)が横たわっていた。是が今聞いた道具に違いないと想い、引っ提(さ)げ持って標石の下(もと)に下りると、汀(みぎわ)に少し出た水門があった。

 一人だけで之を開くことが出来るのか心配ではあったが、老人が一人で開閉したとの事なので、十人力と称せられるこの身に開けられ無い筈は無いと又忽ちに自ら励まし、梃を入れて捻じ試みると、見掛けより軽くて易々と引き上がった。之と共に湖の水は地下の水道に突き出で落ち去ると見え、足の下から異様な音が聞こえて来た。彼は暫(しば)らくの間耳を澄まして聞き入っていたが、やがて、

 「アア、水音だ。水音だ。全く落ちて居るのに違いない。併し此の位の音では幾等も落ちはしない。是が多分は「小」の排水口だろうよ。ドレ「中」から「大」を順々に開いて呉(くれ)れよう。」
と云い、更に次の標石の下に行こうとすると、今まで微かに震いて居た彼の身に、此の水音が異様に浸み込むのを感じ、骨を刺すような一種の冷気が襲って来て、心持の悪いことと言ったら譬(たと)えようが無かった。

 是は果たして何の為だろう。彼は唯湖の底の大金を得ようとばかり、心迫(せ)くまま、自ら其の何の為なのかを怪しみ問う暇も無く、
 「エエ、もっと力を込めて身を温かにしなければ、震いが停まら無い。」
と云い、更に次の水門を動かし始めると、是は「中」の排水口と思われ、前のよりは非常に重い。しかしながら重いながらに、是も開き終わったので、最後に大の水門に取り掛かると、其の重いことと言ったら言い様も無いほどで、到底彼の独力では無理だった。しかしながら之を開かなければ湖を乾かすのに六時間を要し、夜の明けない間に目的を達し得る見込みが無いので、何としても開き果たさなければ成ら無いと、金剛力を以って梃(てこ)を推したが殆ど何の甲斐も無かった。

 これ程重いのを浦岸老人一人の力でどの様にして開閉する事が出来たのだろうと怪しんだが、彼は老人がどの様な道具を用いたのかを知ることが出来なかった。老人は縄を以って梃の先に彼の標石を結び、石の重さを利用して、容易に之を開く事が出来たのだが、彼は唯鉄梃(かなてこ)を見出した嬉しさに、丈夫な縄が其の辺に在ったのを見て取ることが出来なかった。唯梃だけを用いて自ら無益に労するばかり。

 しかしながら彼の必死の力は殆(ほとん)ど石の代わりをまで勤める事が出来て、水門は一尺程上がった。更に続けて力を込めれば充分引き上げ尽くす見込みも有ったが、この時又も彼の身には、其の脊髄から手足の骨々に至るまで砕ける様な痛みが差し込ん出来た。今までにも必死の力を出した事は幾度あったか分からないほどだが、この様な痛みを起こした事は無かったので、是は実に何の為だろう。

 彼に対する非常にたくみな天罰が、漸(ようや)く現れ始めた者なれど、自らそれと知る事は出来ない。
 やがて彼は其の痛みに耐える事が出来ず、梃(てこ)を放し苦しみ叫んで土堤の上に這(は)い登ったが、少し許(ば)かり開かれた水門は、そうで無くても既に用材の幾分か朽ちて居たと思はれる上に、俄(にわ)かに突き来る水の圧力に耐える事が出来なかった。

 底の方からメリメリと折れ破れる音が聞こえたが、少しの間に全く破れ尽くし、湖の水は凄まじい音をして地下の道から落ち始めた。其の音の凄まじいことは、殆ど譬(たと)える物も無く、腕八が這いる土手の面(おもて)さえ之の為に揺り動かされ始めた。

 今まででも水音に骨を刺される想いが有った腕八の身は、此の凄まじい水音の為に、全身粉々に搗(つ)き砕かれる想いがした。叫ぼうとしたが声も出ない。悶(もが)こうとしても身も動か無い。僅(わず)かな息でヒーヒーと泣き叫びながら、僅(わず)かに横様に転がって、せめては土手の動かない所まで逃げて行こうとする。

 この様な苦痛が、急に起こって来ることは、非常に不思議な出来事だが、彼がかって己の片腕と為し、弥生や呂一などを苦しめるのに使用した彼のラペと云う猛犬が発狂し、大川の辺で彼の足に噛み付いた事を想い起こせば、今更此の事があることは怪しむにも及ばない。



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