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武士道 一名「秘密袋」   (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.3.24

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  武士道後編 一名「秘密袋」             涙香小史 訳

               第九十七回

 腕八は砕ける程に痛む身を、辛(ようや)く自ら横様に転がして、土手が揺れ無い辺にまで逃げ出す事が出来たが、真に是は必死の想いだった。彼は全身の力を費やし尽くしてしまって、これより上に這って行く根気も無くなってしまった。幸いにして此の辺りは水音が聞こえることも少し穏やかだったので、骨々の痛みだけは聊(いささ)か鎮(しず)まり、泣き叫ぶ声をも出さ無くなったが、やがて其の横たわった儘(まま)に一種の眠気を催して来た。

 彼の身は土堤の半腹に、草に隠れて仆(たお)れ伏し、唯世話しい呼吸(いき)の出入(でい)りと共に、胴の辺りが宛(あたか)も浪の差し引きする様に起伏するのは、夏の暑さに耐え兼ねて眠った犬の様子に似ていた。しかしながら此は尋常一様の爽やかな眠りではなかった。

 唯余りの痛みを受けた為め、此の上に何の感じをも感じる力が無くなり、自然と眠った人と同様の有様になった者である。身体はこの様な有様だったが心の中は更に動いて、様々な悪夢に襲はれると見え、時々に手の拳(こぶし)を握りしめ、其の顔を非常に酷く顰(しか)めるなどして、苦しそうな様子ばかり現した。

 この様なことが凡そ半時間ばかり続いた後、彼は忽ち目を覚ました様に、
 「大金、大金」
と叫んで起き直った。先程の苦痛も忘れたのか、起きて二足、三足ほど歩み、
 「アア、恐ろしい夢を見た。薔薇(しょうび)夫人が墓の中から恨めしそうな顔を上げて己(おれ)を睨(にら)み、果ては己の足へ喰らい附き、無理に棺の中へ引き込もうとして居たぞ。」
と云い、両の手で額の汗を撫で、折から雲を破って洩れる月の光に湖水の面を打ち見遣やって、

 「オオ豪(えら)い者だ。早や幾分か水が減った様だぞ。それにしても先(ま)ア何だってアノ様に身体の骨々が痛んだのだろう、宛(まる)でこの身が粉微塵に砕ける様だった。」
と云い、更に両の手を振り試み、

 「アア痛みは去ったが節々が非常に鈍(だる)いワ。何だか身体の結び目が解け掛り、緩く成った様な気がするぞ。不意に痛んで、不意に直り、其の後が斯(こ)う鈍(だる)いとは今まで話にも聞かない容態だが、アア分かった、神経とやらの仕業だらう。常に薔薇夫人の事や、床の下から出た白骨が気に掛り、其の上南都で多くの人の無残に殺される様など見たから、神経が何(ど)うかしたのだ。
 臆病な人なら之を薔薇夫人の祟(たた)りだなどと云うかも知れない。ドレ此の様な事など考えて居る時では無い。」

と言って、足を踏みしめて彼の浦岸老人が死んでいる番小屋の方に行くと、如何(いか)にも身体の節々に鈍(だる)い所が有ると見え、酔った人が歩むのに似ていた。

 しかしながら其の足並みは一歩一歩に確かになり、番小屋に近づいた頃は殆ど日頃の健康な様子に異ならかった。暫くして番小屋に到り、又も以前の窓下に立ち、中の様子に耳を澄ますと、弥生の咽(むせ)び泣く声が聞こえた。さては小桜露人(つゆんど)が終(つい)に冥府(あのよ)の人と成った者と見える。引き続いてそれを慰める様に保田老医の声、

 「イヤこの様に手を尽くして死なれたからは嘆く所は有りません。皆様はまだ大事な仕事を持った身ですから、今夜は是でお休みなさい。余り嘆いて病気にでも成っては取り返しが附きません。私も今夜は隅の方を借り、多年親しくした浦岸の家で眠りましょう。」
と云う。

 腕八はこれを聞いて喜び、
 「〆(しめ)たぞ、彼奴等(きゃつら)今眠れば先日来の疲れで明日の昼頃までは目が覚め無い。其の間に己(おれ)の仕事は終って仕舞うワ。」
と呟(つぶや)きながら、更に小屋の下を覗くと、先刻盗み聞いた通り、極めて小型な舟が繋(つな)いであった。

 「此の舟がもっと大きければ仕事が一層早いのに、併しナニ仕方が無いワ。」
などと云って其の舟を引き、水底から桟橋の様な石の堤が現われると聞いた辺に行って見ると、水は早や三尺ほども減っていたが、未だ其の桟橋は現れていない。しかしながら水の退く勢いは非常なもので、現れるのも最早遠くも無いと思い、土手に腰を掛け、此方彼方(こなたあなた)の水面を眺めながらも愈々(いよいよ)此の舟に積み切れ無い大金が、今にも我が物と成るのだと思うと、嬉しいことと言ったら限りが無い。

 心に様々の妄想を描き、大金が手に入った上はこの様にして贅沢を尽くし、あのようにして驕(おごり)りを極め様などと余念も無く空中に楼台を築くうち、身体の鈍(だる)さも殆(ほとん)ど全く忘れ尽くし、先程の痛みさえ思ひ出さない程とはなったが、まだ心の何処かに、何時もと違って何となく引き立た無い所があった。今までかって一度も己(おのれ)の健康などに気遣かった事の無い男なのに、フト怪しそうに気遣(きづか)う心を起こし、

 「ハテな、大金は手に入るが、それを贅沢に使い尽くすまで己(おれ)の命が続いて居るだろうか。貧乏に育った人間が、急に金持ちと為れば、身体がふやけて死んでしまうなどと云ふ話も有るが。」
と弱い思案を現わすのも世に言ふ前兆の類だろうか。

 この様にして幾時をか過すうち、水は益々減じ、己が腰掛ける足の下に、石で築いた桟橋は其の背を現して来た。彼は雀躍(こおどり)して其の上に降り立ち、舟を引き寄せ之に乗り、先ず棹(さお)を差し試みると、成る程、湖の水が悉(ことごと)く乾くとも、茲(これ)より金貨の在る所までは、まだ水が残って一筋の舟路を剰(あま)すため、水底を掘り凹(くぼ)めた者か、将(は)たまた天然地盤の凹(くぼ)んだ者か、深くて棹(さお)が立た無い。

 更に櫂(かい)を取り其の深い所を知便(しるべ)として進んで行くと、左右は既に水が浅くなり、殆ど底に生える藻草などが現れ出ようとしていた。今三尺(90cm)も水が落ちれば何(ど)の所も人の背の立つまでに浅くなるに違い無い。

 この様に思って漕ぎ進み、愈々中央の所に到れと、底に差し込む月の光にギラギラと輝いて見える一物、是れ真に金貨である。水底の泥に塗(まみ)れ半ばは外まで見えないが、少なく見積もって百万円の上は有るだろう。腕八は喜んで狂乱の有様である。

 舟の舷(こべり)から手を出し水の中を探ろうとすると、其の手が水に触れると共に彼の総身は忽ち以前に倍する恐ろしき痛みを起こした。 嗚呼此の痛みは、是れ世に是ほどの苦しい病は無いと言い伝えられる、悪病中の大悪病「ハイドロホピヤ」(恐水病)と云う者である。



注:明治時代の1円の価値
  通貨の比較では1円は今の3800円くらい
  100万円は38億円相当
  
  生活感覚からすると1円は今の2万円くらいに当たりそう
  100万円は200億円相当の感じ
 



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