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武士道 一名「秘密袋」   (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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  武士道上編 一名「秘密袋」             涙香小史 訳

               第九十八回

 恐水病(きょうすいびょう)の恐る可(べ)きは、今更に言う迄も無い。アア腕八、犬を以って人を苦しめ、自ら其の犬に噛まれて、今は此の恐水病と為る。水の底に大金の沈んでいるのを見て、多年の本望を達する事が出来る時が来たのに、貪欲に之を取ろうとすると忽(たちま)ち水攻めの苦痛があった。大金に近づけば近づく丈益々其の責め苦が増すばかり。天の為せる配剤とは真にこの様な類(たぐい)を言うのに違いない。

 彼は手を延ばして水を探ると共に、以前に優る痛みが忽(たちま)ち総身に発するのを感じたので苦悶して舟の中に倒れたが、まだ欲心を捨てる事が出きず、
 「エエ、此所まで来て大金を取る事が出来ないとは残念だ。大金を、大金を。」
と続け様に叫んで起き直ると、平らな湖の水も、怒涛狂爛の如くに見え、遥かに響く水門の水の音、一々我が骨を刺すようだった。苦しい事も恐しい事も言い様が無い程だったので、流石の彼も最早や耐え忍ぶことが出来ない。

 一旦土堤に漕ぎ返り、気分を直して再び出て来る外は無いと思い、其の櫂を取り上げようとすると、手足の関節悉(ことごと)く腫れ揚がり、到る所に痛苦を覚えて身動きする事も出来ない。その中に眼も暗み、四面暗黒と為って、様々な異形の幻影が目の前に躍り狂うのを見るばかり。
 「アア己(おれ)は発狂した。誰か来て助けて呉れ。」
と二言、三言叫んだが、やがて舌も根剛(こわ)ばって其の声も聞こえなくなった。

 宵の程から小屋の外で、腕八と共に馬を番しながら、幾日来の疲れに、知らないうちに眠り込んだ彼の鉄助は、異様な叫び声に目を覚まし、耳を澄まして聞くと、余音(よいん)の響く様子は、何うやら湖水の中央から来るようだったので、怪しく思って、土手の此方へ廻って来て月影に透かして眺めると、水は水門の方を指し、瀬を為して溢れ出し、其の瀬に従って同じ水門の方へ引き流される小舟があった。

 中に人が倒れている様子も見える。誰が何の為に水門を抜いたのだろう、又真夜中に湖面に舟を浮かべているのは何者だろうと、暫(しば)らく見定める事も出来ずに眺めて居たが、何しろ舟は益々流れ去るばかりで、捨てて置いたら、水門の渦に巻き込まれるのは必然である。

 今叫んだのも、舟の中に倒れている人が何かの仔細があって、助けを呼んだのに違いないと思い、急いで水門の方へ廻って行くと、舟は早や土手の際に来て、渦と共に廻りつつ有った。鉄助の来ることが、今一分遅かったなら、舟も人も地下の水道に飲み込まれる所だった。

 鉄助は舟の小傍(こべり)を捕えようと、水際に降りて手を延ばしたが、此の時初めて舟の中の人の顔を見る事が出来た。彼れは悶え苦しんで倒れたと見え、仰向けになって両の手を握った儘(まま)で、顔は眉の骨、頬の骨共に腫れ上がって居たけれど、衣服の様子で腕八で有る事が明らかだったので、

 「オオ腕八か」
と声掛けると、彼は術無(せつな)さに乱調子となった声で、
 「己(おれ)は恐水病だ、大金を、大金を」
と口走るばかり。此の時漸く鉄助は舟の一方を捕えて、留めると、水の力は非常に強かったので、舟は斜めに双方に引かれた為、傾いて横になり、鉄助が驚いて取り直そうとする間も無く、腕八の身は転がって、渦巻く水門の中に吸い込まれて見えなくなった。

 之を救う方便(てだて)は無く、又今見た容態では、仮令(たとえ)救っても、この世の人では無い。地下の樋の中で蟹にでも食い殺されるのがこの様な奴の相場であると、鉄助は気にも留めず、唯異様に感じられるのは腕八が、
 「大金、大金」
と叫んだ言葉である。

 素(もと)より鉄助は中尉を初め、一同が大金の為に茲(ここ)に来た事は知って居る。又腕八が狂犬ラペに噛まれた事なども知っていたので、之に腕八が恐水病だと言った言葉などを思い合わせ、少しの間に言の次第を見て取ったので、直ぐに舟を引き小屋に帰り、中尉と黒兵衛とを揺り起こすと、二人とも早や事切れた小桜露人(つゆんど)の死骸の傍に、眠るとも無く居眠りして居たが、驚いて覚めて仔細を聞き、早速湖水の岸に行って見ると、水は既に落ち尽くして、中ほどの辺に眩(まばゆ)く月に光って居るのは、全く金貨を盛った鉄の網である。

 腕八が欲心から茲(ここ)まで仕事を運んで残し呉れたのは何よりし合わせであると、之から舟で幾回も其の金貨を取り出すと、驚く事に百三十万の高に達した。前にも記した様に、中尉の荘園であるケロンの荘、幸い湖水の一方に接していたので、直ちに馬に黄金を付け、取敢えずケロンの荘まで運び尽くしたのは夜の引き明けた後だったが、人通りの無い所なので誰も知ることは無かった。

 是で武士道の物語は終った。此の金の幾らかを割いて弥生の旅費とし、残りは中尉が之を預かって、ケロンの荘に保管し、弥生は黒兵衛に連れられて彼の梅田嬢と共に英国に落ち、中尉は小僧呂一をケロン荘の留守居の一人に加え、身は共和軍に帰った。

 数年の後、梅田嬢は英国に死し、弥生は仏国(フランス)が全く平和になった頃、黒兵衛に守護されて帰って来て、目出度く中尉の妻と為ってケロン荘の女主人と立てられたが、薔薇夫人の遺産の外に小桜家の遺産まで悉(ことごと)く弥生に帰したので、当時仏国(フランス)一、二の金満夫人に数えられ、数多の子をも生んで幸福の世を送った。

 露人の死骸はケロン荘に仮埋めしたのを、後に小桜家先祖代々の墓地に改めて葬り直した。保田老医及び老婢お律も皆天然の寿を全うし、黒兵衛は弥生夫人の山林番、鉄助は縄村家の牧場番をし、これ等も其の壮年の波風多かったのに似ず、非常に平穏に老年を送ったと云う。

武士道後編 終り
武士道 完



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