gankutu108
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2011. 4.2
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
百八、「金の捨て所」
真にこの巌窟島伯爵の言葉は、その行いと共に、驚くべきか、敬うべきか、さもなければ羨むべきか、この三つの中で有る。一つとして平々凡々な事柄は無い。
客一同は誰もがこの伯爵に、なるだけ親切を尽くし、なるだけ友好を深くしたいとの思いを起した。それは食事が終わって喫茶室に移るや否や、砂田伯爵は発議した。
「伯爵はローマから初めてこのパリに来て、馬車を降りずにこの家に着いたとすれば、まだ旅館が決まっていないのは勿論だろうから、我々でしかるべき宿なり家なりを探してあげようでは有りませんか。」
出部嶺;「賛成です。」
猛田;「賛成です。」
武之助は考えながら、「直ぐに私のこの家をお宿に御用立てましょう。」
砂田伯;「イヤ、それでは伯爵がかえってご心配だろう。我々一同、ここと思うところを指名してみようではないか。」と言い、これより皆、思い思いに自分の知っている旅館や貸し別荘などを数え上げた。一人無言で居るのは森江大尉一人である。
出部嶺は大尉に向かい、「貴方も何処か心当たりが有るでしょう。」と促した。
森江;「私は皆様と違い、流行社会の様子など少しも知りませんから、無言で控えていたのです。けれど若し伯爵が、清くて静かな家が望ましいとでも仰るなら一箇所、申し上げる所が有ります。」
伯爵はこの大尉の言葉に最も心が動いたようだ。直ぐに大尉の方に顔を向けた。
大尉;「それは外でもなく、私の妹が夫の江馬仁吉と共に住んでいるメスレー街の屋敷です。」
伯爵は屋敷の様子を聞くよりも、大尉の妹やその夫のことを聞きたいように見える。非常に熱心に、「ハハア、貴方にはお妹がおありですか。」
森江;「ハイ、兄の口から褒めるのは変ですが、全く天女のような心がけを持った妹です。」
伯爵;「それで、もう夫ををお持ちで。」
森江;「ハイ、先刻申しました私の父が、富村銀行に救われた後、間もなく結婚したのです。今でかれこれ満九年になります。」 伯爵;「きっと幸福に暮らして居られるでしょうねえ。」
森江;「ハイ、夫婦仲も睦まじく、全く何不足も無く暮らしていますが、幸いその屋敷がよほど広くって、空き地などが沢山有るものですから、もし貴方がその家の一部を宿にしてくだされば必ず妹もその夫も、私の満足を思って喜びましょう。」
伯爵は残念がるように、「その様な幸福な家庭ならば私も是非一度は伺ってそのご夫婦にお近づきを願いたいと思いますが。」
森江;「それは私から願うところです。」
伯爵;「がしかし、私は至ってわがまま者ですので、人様の屋敷の一部を拝借するわけにも行かないと思い、実はローマを出発する数日前に、従者を一人、このパリに寄越して有ります。私が着くまでに、しかるべき家を借り造作万端手落ちなく運んで置くようにと命じまして。」
この言葉にも一同は驚かされた。何と言う手回しの良い人だろう。
出部嶺;「貴方はパリに来るのは初めてだと仰っても、従者の中にはパリの事情に通じた者がお有りだと見えますね。」
伯爵;「イイエ、その従者もパリは初めてです。しかもアフリカのヌビア人で舌が無くて、口を利くことも出来ない者ですが。」
武之助は納得して、「アア、アリーですね。アリーを先に寄越していなさったのですか。」
砂田伯爵;「その様な者に家の借り入れ、その他の事が出来るでしょうか。」
伯爵;「ハイ、あたかも犬が主人の気風を知っているように、アリーは私の気風を知り、何事をさせても、最も私の趣味に適したように運びます。皆様には怪しいように聞こえましょうが、今日もアリーは私が来着することを察し、ホテンプローの辺りで待ち受けていて、そうして私の馬車にこのような書類を投げ込みました、彼は全く良い狩犬の天性を備えています。どの様な森の中に入れても、自分の勘だけ必ず獲物を捕らえます。」と言い、ポケットから一通の書類を出して示した。
一同は呆れながらこれを見ると、家屋を借り入れた契約書の片割れで、勿論借り入れたその家の町名番地も記してある。
砂田伯;「之は驚くほかは無い。」
武之助;「伯爵のなさることは全てこのような調子です。だから私は人間以外だと言うのです。」
猛田;「どうしてアラビアンナイトの中の人です。」
出部嶺は半ば疑ったけれど、伯爵の様子に少しも嘘らしいところが無いので、止むを得ずその疑いを掻き消した。
砂田伯;「それでは我々が伯爵に尽くす手段は、そうだ、主なる劇場で第一等の桟敷を借り入れてあげるのにあるのだ。」
猛田;「その通りです。劇場ならば新聞記者という私の受け持ちとして、借り入れの役目を勤めましょう。」
伯爵は又これをさえぎって、「イヤ、折角のご親切ですが、これも私より一日前に執事をパリに立たせましてーーー」
武之助;「執事とはあの春田路という。―――」
伯爵;「ハイ春田路にパリの劇場残らず桟敷を取っておけと命じました。これも今頃は多分運んでいるでしょう。」
パリの劇場残らずとは何というスケールの大きさだろう。なるほど金の捨て所に困っている人としか思われない。
それならばこの上、何の世話をもって伯爵に好意を示せば好いだろうと、一同はどうしたらよいか分からない様子でしばらく顔を見合わせたが、今度は出部嶺が思い付いた。
「こればかりはまだ伯爵の手が届いていないだろう。われわれはこれをもってするほかにやりようが無い。どうです、諸君、絶世の美人を、お妾として、我々の勢力で御世話申そうでは有りませんか。」
第百八終わり
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