gankutu109
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2011. 4.3
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
百九、「嗚呼、どの様な対面」
何から何まで伯爵の容易が行き届いているので、真に絶世の美人を世話するほかにこの伯爵を喜ばせる手段は無いように見えた。
絶世の美人と聞いて武之助は再び思い出した。伯爵がローマの劇場で伴っていたあのギリシャの皇女のことを。あれは皇女では無い。ただの美人だ。
伯爵の話に寄ると、トルコ国王の後宮に后(きさき)の一人として売り込まれるところを買い取ったというが多分あの美人だろう。どちらにしても絶世の美人というのはあのことで、たとえ出部嶺や砂田伯爵が自分らの勢力で何処をどう探してもアレより以上の美人を見つけることは出来ないだろうと、武之助は腹の底で笑った。
果たせるかな、伯爵は絶世の美人と言い、妾というのを聞いて、口を開いたが、少し冗談の調子を帯びた口調だが熱心である。
「イヤ、皆様、私は妾よりももっと自由自在に虐待しても差しさわりの無い者を連れていますよ。それは女の奴隷です。」
奴隷の一語に一同は又驚いた。武之助は口を添えた。「年は十七、八で、それこそ世界に又とない美人です。」
伯爵は笑いながら、「皆様は失礼ながら、奴隷を持ったことは無いでしょう。奴隷ならば、たとえ殺したとて構いませんから。」
猛田;「どのような奴隷ですか。どうして手に入れたのですか。」
伯爵;「先ほど申しましたエメラルドで買い取ったのです。トルコの後宮へ奴隷商人が売り込むのに決まっていたのを、私がその商人には金をやり、トルコ国王にはエメラルドを贈り、双方の承諾を得て買い入れました。」何と言う異常な事柄だろう。
砂田伯爵;「なるほど、奴隷の方が淑女より好ましい。あのエメラルドと代えるほどなら全く絶世の美人に違いない。」
出部嶺;「しかし、伯爵、この国では奴隷を所有することは出来ません。この国に入ると共にその奴隷は自由の身となり、逃げてしまいましょう。」
伯爵;「奴隷がどうしてこの国の制度などを知りますものか。」 出部嶺;「当人は知らなくても、誰かが話して聞かせましょう。」
伯爵は真面目に、「逃げるのは必ず独り立ちの見込みが出来てからでしょう。私の元に居るよりも外に良い位置が出来て、それで逃げて行くなら私は満足です。そもそもその女の境遇を憐れんで買い取ってやったのですから。」と、少しの惜しげも持っていない様子である。
惜しげのない一少女に、しかもそのトルコ皇帝の後宮に売り込まれるという境遇を憐れむだけのために、奴隷商人には金(きっと大金)を与え、トルコ皇帝にはエメラルドを献じたとは、いかに限りのない財産を持った人にしてもあんまり贅沢すぎるやり方であると、一人密かに怪しんだのは新聞記者の猛田である。
彼は人知れず呟いた。「その奴隷にはきっと深い事情があるのだろう。必ず伯爵の身にとって、特別にそれだけの値打ちがあるのに違いない。何かの用に供する為に違いない。もしも今後伯爵が何か異常の仕事でも企てる事があれば必ずその女が役に立って居るだろう。」
これだけは見抜いた積もりで有るけれど、さて、その女を伯爵がどの様な役に立てるつもりかということは、千思万考しても猛田の考えることが出来ないところであった。
兎も角一同は、伯爵に対して何らかの行為を示すべき道が無いということに行き詰まり、今は仕方が無いから、他日伯爵の身に何らかの必要が出来た時、一同力を惜しまずに伯爵に尽くそうということに極まった。伯爵は之に対して礼を述べた。
「イエエ、皆様、私は旅の身で、皆様にどの様な厚意を受けても恩返しの手段が無いだろうと思いますから、全くご心配はご無用です。ただ、私は諸君のご勢力のために、これから社交界に入り込むにも万事都合が良かろうと思い、これを何よりの厚恩と感じます。
勿論この伯爵の勢力をもって社交界に入るのは何の手数も掛からないところだ。いかにやかましい社会でも、この伯爵をならば、両手を開いて迎えに来るのだ。それをこのように謙遜をして言うのはますます愛すべき人物であると誰もが胸の中に伯爵に対する春風をたたえて散じた。
散ずるに臨み、出部嶺は武之助に向かいひそひそ話をした。
「ナニ、今の我が政府の警察力を持って探れば、伯爵がその実何者かと言う事は直ぐに分かる。僕の考えでは何処か東方の小さい専制国の君主か、君主の隠居とでも言う身分で、忍びの旅行しているのだと思う。何しろ分かり次第君に内々で知らせますよ。」
しかしこの約束はついに果たせなかった。猛田猛は又、独り言のように言った。「これから議院で段倉男爵の演説を聞きますが、その筆記よりも伯爵の記事の方が、どれ程読者を喜ばせるかわかりません。」
いよいよ伯爵は新聞の記事の方でもパリ人を驚動させるのだ。
一同が去った後に、伯爵は武之助と共に残ったが、しばらく無言になってしまった。これはきっとこれから武之助の父及び母と顔を合わすのだと思い満身の勇気を呼び集めて居るのだろう。二十余りの年に分かれた、団友太郎とお露、そうして次郎、嗚呼どのような対面とはなることやら。
第百九終わり
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