巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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gankutu12

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2010. 12. 27

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

十二、危ない処、危ない処

 今が今まで、自分の運が大いに開けて来たのを喜んでいた蛭峰検事補は、ただこの手紙の宛名だけで、たちまち自分の足元へ千尋(せんじん)の絶壁が出来て、自分がその底へ落ち込まなければならないかのように感じた。実にこの宛名が自分の身の破滅である。

 「ヘロン街十三番地野々内殿」これが自分の父でなくて誰だと言うのだ。父の過去の履歴で今でさえこの身の出世を妨げることが、少なくないのに、今現にナポレオンと気脈を通じ、このような手紙のやり取りをしているとあっては、このことが人に知れたら、どの様な目に会うか分かったものではない。

 出来るばかりと成っている、婚礼さえ危うくなる。いや、危ういどころではない。礼子の父米良田氏は勤皇の凝り固まりであるのに、何で国王を蹴落とそうとしているナポレオン党の首謀者の息子と縁組をするものか。縁組は敗れる。その理由が長官にも知れる。どうしても自分の身が滅びる以外はない。

 もし、誰もいないところなら、蛭峰は声を出して泣くところだろう。職務の椅子に座っているため被告人を前に控えて泣くにも泣けない。けれど、彼は全く呻(うめ)いた。泣くよりももっと辛い声だ。ただこの手紙が誰の手にも渡らずに、我が手に落ちたのはせめてもの幸いである。

 真の検事が留守だからこそ、こう検事の代理者である我が手に落ちたのだ。真近にまだ自分以外にこの手紙を見た者は居ないだろうと、こう思うと我知らず辺りを見回すことになった。
 蛭峰の前に立っている友太郎はそうとも知らず「ハイそのヘロン十三番地野々内殿と宛ててある手紙がそれなのです。」と言い足した。

 蛭峰は再び呻いた。友太郎は様子の異様なのを怪しんで、「オヤその方は貴方の知り合いですか。」蛭峰は喉に詰まる声で「国王の忠実な官吏は決して陰謀者などは知りません。」
 こう言って更に手紙の中を開いて見た。中には実に容易ならない大陰謀の打ち合わせを記してある。蛭峰は額に油汗が湧いた。この様な大陰謀を半分は父が背負っているのだ。これがもし人に知れたらこの身が助かるはずはない。

 どうして良いやら、日頃は種々の計略に富んだ身でも、余りの事に何の考えも浮ばないまま、二度、三度手紙の文句を繰り返しては読んだ。読むうちに益々逃れる道がないことが分かって来る。
 それにしても何とかせずには居られないのだ。彼は出し抜けのように友太郎に言った。

 「貴方にじっくりと聞かなくてはなりませんが。」友太郎;「ハイ、何事でも正直にお返事いたします。」こう答えて友太郎の方でその問いを待っているのに、その問いが中々出て来ない。

 蛭峰は身を椅子に仰向けにして、天を眺めるようにして、額の汗を拭いた。そうして、心の中で呟(つぶや)いた。「友太郎がこの手紙の中を知っいるかも知れない。」もし、知っていて、その上に、野々内が私の父だということ事まで知っていれば、最早、自分が助かるところはない。ただ一人にでも知られていれば、そのうち外の人にも知られるのだ。」

 さては、この手紙を握りつぶす積りかもしれない。検事補という職業に対して、実に相済まない考えではないか。彼はようやく聞いた。「貴方はこの宛名を知っていますか。」
 友;「宛名を見ずに届けることは出来ませんから、勿論、読んで知っています。」
 蛭;「イヤ宛名の人を」
 友;「人は少しも知りません」
 蛭;「全くですか。」
 友;「全くです。野々内という姓さえその封筒で見るのが初めてです。」

 蛭峰は少し息をした。そうして更に「この様な手紙ですから、託される時に、勿論中の意味を聞いたでしょうね」。巧みに鎌をかけている。
 友;「私が何でその様なことを聞くものですか。」
 蛭;「それにしても中を読むことは読んだでしょう。」
 友太郎は少し呆れた顔で、「イイエ、決して。」
 蛭;「中の事柄を知りませんか。」
 友;「知りません」
 蛭;「少しも」
 友;「少しも」

 偽りのない様子が分かって蛭峰は初めて本当に人間らしい息をした。そうして、更に言葉の調子を落ち着けて、「直ぐに貴方を釈放する積もりでしたが、釈放の前に一応、判事に相談しなければなりません。そのため少し時間がかかります。」時間がかかるくらいは仕方が無い。我慢をしなくてはいけない。

 友;「よろしゅう御座います。」
 検事補は余程親密な友人に内緒の相談でもするかのように、ズッと友太郎に顔を寄せ、かつ、打ち解けた様子を見せて、「実はネ」と言いかけ、一段声を低くして、

 「この手紙が貴方の嫌疑の本体だから、これがあるうちは貴方の身に面倒が尽きませんよ。貴方の様な正直な者にそう面倒をかけるのが決して裁判の本意では有りませんから、私がここでこの手紙を焼き捨てて上げますよ。」

 検事がこのような手紙を焼き捨ててよいものか悪いものか、その様なことは友太郎は少しも知らない。ただ深くこの人の親切を感ずるばかりだ。
 「イヤ、貴方のご親切にはお礼の言葉もありません。」
 蛭;「その代わり、誰にも何と聞かれても、この手紙のことは少しも口外してはなりませんよ。」
 友太郎は言い切った。「決して口外は致しません。」

 この手紙を託されさえしなければ、貴方は裁判所に呼び出されるはずは何も無い。幸い貴方と私より外に知った者は有りませんから、ソレこの通り」と言いながら立って、彼の手紙を暖炉の中に入れ、灰も分からなくなるまで焼いてしまった。自分の地位を助けるためとはいい、ひどいやり様だ。

 蛭峰;「この外に何も託されていないでしょうね。」
 友;「ハイ何も」
 蛭;「全く偽りでないとお誓いなさい。」
 友;「固く誓います。」
 蛭;「では、今言ったとおり、貴方を後ほどまで、イヤ、晩ほどまで当庁に留め置き、そうして釈放の手続きをしておきますから、しばらく警吏の後について退出しなさい。」

 こう言って直ぐに人を呼び、入って来た警吏に向かって何事をかささやいて、そうして、又友太郎に向かって「サアこの方について行けば良いのです。」
 友太郎は兎に角、日の暮れにはお露の傍(そば)へ帰れるとものと思い、頭を垂れて一礼し、それとはなく熱心に謝意を示して、そうして、警吏に導かれて退いた。

 その後に蛭峰は胸をなでて、「まあ良かった、検事が不在で、俺が代理を勤めたのは何よりも幸せだった。もし、検事の手にアノ手紙が入ったらどうだったろう。アア、危ない所、危ない所。」一人呟(つぶや)いて微笑(ほほえ)むのは、何と言う恐ろしい度胸だろう。そうして微笑みの痕(あと)の消えるか消えないうちに、更に何事をか思い付いたと見え、はたと手を打つようにして、

 「アア、馬鹿なものだ、この明暗を気づかなかった。そうだ、そうだ、禍(わざわい)を転じて福となすとはこのことだ。少し上手く立ち回れば、かえってこれが、非常な出世の種になるわ。」

 どう禍を福に転じるつもりか知らないが、彼は五分前に脂汗を流していたのに似ず、満面に嬉しさを輝かせて、「サ、直ぐにこれから着手するのだ。そうだ、またとないこの好機会を取り逃がしてたまるものか。」と勇みに勇んで立ち上がった。

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