巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu129

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 4.23

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

百二十九、「一種の宣告」

 しきりに神の法律を説く伯爵の言葉は、実は蛭峰重輔に向かってそれとなく言い渡す一種の宣告である。「我は天の手となり天の口となり、今から汝の罪悪を罰するぞ。」と暗に告げ知らせて置くのである。蛭峰はそうと察するはずは無い。ただこの伯爵の言葉も思想も勢力も人間界に絶するほど高く秀でているのに驚き、又その素性、その身分まで何となく神の真体の知り難さと合い似ているのに驚き、思わず恐れと敬いの念を生じ、若しもこの世に、真実神の代理として天から選ばれる人が有るなら、なるほどこのような人だろうかと思うまでに至った。

 「けれど、伯爵」と彼は恭(うやうや)しく言いかけた。伯爵との尊称を彼がこの人に向かって吐くのは初めてである。「幾ら貴方の金力、勢力、智力などが無限にしても、貴方の寿命には限りが有ります。限り有る寿命をもって、限りない天の裁判をどうして行うことが出来ますか。」
 伯爵;「イヤ、限りない天の裁判を全て私が行うというのでは有りません。私が託されて居るのは、そのうちの僅かな一部分です。」

 蛭峰;「なるほど、しかし一部分にしても人は老少不定です。貴方が先ほど、いつ何時用事の都合で世界の果てまで立って行かなければならないと仰(おっしゃ)った通り、いつ何時健康が損じて、働きの出来ない人と成るかも知れません。」

 伯爵;「ソレは勿論です。しかし、私は確信します。天が私にそれだけの仕事を任せ、したがって仕事相応の金力や智力や身分を与えて下さったのですから、又仕事相応の健康と寿命も賜ってあるのに違いないのです。今まで様々な事を試みて私の健康が人に勝り、十分天の意を行うのに耐ええることも分かっています。兎に角、天は私に命じただけの仕事をし終わるまでは私の寿命を奪いません。私が死ぬのは必ず仕事が終わった後です。」

 蛭峰は最早や異論を立てる余地も無い為少しの間黙然として考えたが、やがて又思い出したことがある。
 「今から数十年前の事ですが、丁度貴方と同じく天から大任を授かったと自信して、天の裁判を人間に行うのだと揚言していた人が有りました。一事はなるほど天の代理かとも思われるように様々な仕事を始めましたが、その成就しないうちに、恐ろしいほど健康を奪われて、全くの廃疾となり今直、手も足も動かないままただ命だけ永らえているのです。その人と貴方とを同一視するわけではありませんがーーー」

 伯爵;「それは誰です。」
 蛭峰;「私の父野々内です。今から二、三十年前の、革命の頃のことを知っている人で、誰でも野々内弾正の名を知らない者は居ないでしょう。」
 伯爵もその野々内の名を覚えている。昔団友太郎がナポレオン党のペルトラン将軍から託された密書が即ちその野々内へ届けるべきものであったのだ。

 「オオ、その野々内と言う名高い方が今は」
 蛭峰;「ハイ、十年ほど前に急激な中風症に襲われ、手も足も口も利(き)けず、体中でただ動く所は目だけです。その後は引続いて私の宅に寝て、私の今の妻や先妻の長女華子らに介抱を受けていますが、どうしてこの人が昔飛ぶ鳥を落す勢いの有った野々内だろうかと怪しまれるばかりです。どうか貴方も何時か私の家にお出での上、野々内の容体をご覧下さい。天の大命を受けたと自信を持っていた頃の面影は有りません。」

 伯爵は非常に真面目に、ほとんど固く約束するように、「ハイ、是非伺います。しかし蛭峰さん、まだ貴方は天の命を信じることが出来ないと見えます。野々内氏がその様になったのも必ず何か天意に出たことでしょう。体が働かないままで居ても他日或いは体の動く人が成しえないような事をするかも知れません。健康な人よりかえって不健康な人が天のお役に立つことも有り、生きて果たしえなかった天意を死んで果たすということも有ります。兎に角私は遠からず野々内氏にお目にからせて頂きます。」

 話はほとんど尽きたが、果たして我が父野々内のような廃疾の人が天の役に立つということがあるだろうかと、蛭峰は深く疑い、後に至って思い当たる場合があるまで信じることが出来なかった。

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 しかし、蛭峰は、この伯爵を何しろ人に秀でた一種の異物として尊敬の念を起して別れ去った。
 その後で伯爵は、ほうっと息して呟いた。「アアこれで、次郎、段倉、蛭峰の三人に会った。三人ともに不思議なほど出世して余ほどの勢力を得ているというのも矢張り天意のあるところがわかる。私の仕事は益々困難であるのだから、益々奮発しなければならないが、何してこう悪人にのみ会っては自分の心が怒りにのみ固まりすぎて、公平な考えは出て来ない。

 少しの間清い愛らしい様子を見て、心を洗い清めなければ、オオそれのためには、これから鞆絵姫に会い、次にはメズレー街7番館と聞いた森江真太郎の一家を訪れるとしよう。このような人々と少しの間でも交われば悪人から移された嫌な臭気が抜けて、生まれ代わった心地になる。」呟き終わって春田路を呼び、馬車の用意を命じて置いて、その間に二階の鞆絵姫の部屋に上がって行った。

 鞆絵姫とは伯爵がトルコの後宮に売り込まれる女奴隷の中から買い取ってその後絶えず連れているあのギリシャ風の美人であることは既に分かっているところであるが、ただこの様な女奴隷が、どの様に伯爵の身に必要であるかは誰も知ることができないところである。

第百二十九終わり
次(百三十)

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