巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 4.24

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

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百三十、「鞆絵姫」

 人間既に四十の声を聞いて、妻も無く子も無く、我が心を打ち明けて語り合う相手も無いのは決して幸福と言うものでは無い。巌窟島伯爵のごときが即ちそれなのだ。全く限りない富と勢力とをもって、思うこと意のままにならない事は無いとは言え、妻も無い、子も無いのだ。

 ただ一念、天の命を果たすということに凝り固まっているために、少しも妻も子も欲しいと思わず、全て人間の情を打ち捨てた有様では有るけれど、生まれ付いての木石では無い。元はといえば人一倍の多情多恨、愛もあり涙もある真の優しい気立てに生まれたけれど、ただ悪人の企みにかかり、人生の又と有りえない悲惨の底に陥ったために、自分で勉めて一切の人情を捨て、脇目を振らない機械のような身にはなったのだ。

 その人情のないところに、かえって深さの知れない程の人情が潜んでいる。雨の夕べ、風の朝。仕事が絶えて一人物思いに沈む時などは、潜める愛、潜める情けが溢れるばかりに沸き起こって、非常に自分の身とその無限の富とのはかなさを感じる事が無いものか。 我が富は誰の為ぞ、我が復習は誰の為ぞ、たとえ何もかも思う通りに進んだとしても、その時に我がために喜んでくれる人は何処に居る。誰に褒められ、誰に喜ばれるだろう。思えば余り張合いのない仕事ではないか。

 嗚呼、世界を動かすほどの大機械も油をもって滑らかにしなければ、自分の熱のために燃え尽くすのである。絶世の英雄とても何のところにか、一点情けを持って和らげるところがなくて済もうか。 今伯爵が大いなる仕事の間に、鞆絵姫を訪れ又恩人森江良造の息子真太郎の一家を訪ねるというのもこのようなことのためではないだろうか。ほとぼりを抜き、心を静かにして、わが身が我が仕事のために焼き尽くされるのを防ぐ為ではないだろうか。

 兎に角も伯爵は二階に上がった。ここは伯爵の家の中でもっとも神聖な所ともいうべきである。部屋中の飾り立ては女王を住ましめるかと疑われるばかりに、贅沢の極度を示している。その取次ぎの一室にはパリー生え抜きの召使三人、鞆絵姫の腰元として控えている。その次の部屋は廊下を隔てて、これにはギリシャの召使が控えている。この召使が直々に姫のご機嫌を伺って、パリーの召使に指示するので、パリーの召使は直接に姫のお傍に行くことは出来ないのだ。女奴隷と言ういやしい名を持ってこのように厚く取り扱われる鞆絵姫はそもそも何者であろう。

 先ず伯爵はパリーの召使に向かい、「一時間ほど姫に会いたいが、姫の都合を伺ってくれ。」と頼んだ。そうして次の間から迎いに来たギリシャ召使の後につき、姫の居間の入り口まで進むと、中から足音を聞いて間の垂れ幕を開き、美しい顔を出したのは、かって野西武之助に、ローマの劇場の桟敷で見られたあの美人である。

 年齢は十七か八、顔に憂いの色は見えるけれど、トルコ皇帝が絶世の美玉とでなければ取り替えないと言われたのももっともである。美玉は二つあろうともこの清い顔は人間にまたと無い。これが鞆絵姫(ともえ)の顔である。

 姫は伯爵を、愛人として迎えるのか、兎も角も恐ろしい人とは思わないと見え、伯爵の手にすがり、「君主が女奴隷のところに来るのに、都合を伺うに及びましょうか。」となじるように言うのも優しい。伯爵はすがれる手を静かに払い、ほとんど恭(うやうや)しいほどの身振りで、姫を座に着かせ、自分も座して、「イヤ姫、このフランスに来たからには、もう奴隷ということは有りません。御身は今から自由の身です。」

 自由と言う語ほど奴隷にとって嬉しい言葉は無い。いずれの奴隷も、ただ自分を自由をと、夢にまで見ているのだ。けれど、姫はただ怪しむばかりで喜ぶ様子は見えない。「エ、自由、一人で身を支える事さえ知らない私に自由が何になりましょう。」

 伯爵;「イヤ、身を支える心配はありません。御身の自由の財産として、先ほど銀行に毎月相応の利子のある額を貴方の名で預けて置きました。もう好きなようにその金を引き出して、好きなように何処へでも行くことが出来るのです。」

 姫は金の有りがたささえ知らない。かえって顔を赤くして、両眼に涙を浮かべ、「私をお捨てなさるのではないでしょうね。」いくらか恨みと幾らかの心配を帯びて問う様子は可愛そうに見える。
 伯爵;「どう致しまして」
 姫;「好きなようにと言われましても、私ひとりで何処に行かれましょう。幼い頃は父の顔と、今は貴方の顔とより外、男の顔は見たこともない私が、貴方のおそばを離れてはーーー」
 
 伯爵;「イヤ、何も離れなければ成らない訳ではないのです。ただこの国では奴隷と言う事が禁じられていますから、奴隷で無いだけの備えを付けたのです。今までの通り私の手元に居るのも、立ち去るのも、出るも入るも全て貴方の気のままだと、ただそれだけをお知らせ申すのです。」

 姫;「自由ならば今まで通りにしていただきます。奴隷でも奴隷でなくても、父母を失った上は、貴方のおそばを離れては鞆絵の行くところが有りません。」真に憐れむべき状況である。伯爵はあくまで真面目である。
 「ハイ奴隷の身をとき捨てそうして今まで通りで居る事はもとより、私の本望です。けれど、唯一つ貴方へのお願いは、この後誰に会うとも決して貴方の父母の名を知らさないように。」
 姫;「ハイ、それは貴方が仰(おっしゃ)らずとも」

 伯爵;「トルコを引き受けて義戦した一国の君主の姫君が、時世時節とはいえ、奴隷商人の手に掛かり私ごときに救われるとは」言いかけて伯爵の目には涙の露が輝いた。
 姫;「貴方に救われたからこそこうして何不自由もなく暮らされるのです。貴方の恩にはこの身を砕いてもと思います。」言いながら再び伯爵の手を取って、赤い唇をこれに当てた。

 伯爵はこの様子に深く心をかき乱されたと見え、今までの真面目な態度を支える力が無い。「オオ、憐れむべき者よ」と言い姫の肩に手を添えた。もとより情人の中では無い。けれど、他人としては又心情の深すぎるほどにも見える。

第百三十終わり
次(百三十一)

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