巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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gankutu133

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 4.27

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

百三十三、「華子さん、華子さん」

 大いなる仕事のため何年何ヶ月、身を練り胆を鍛え、石心鉄腸の人となった巌窟島(いわやじま)伯爵のような人が、僅かに森江良造の死に際に団友太郎の事を言ったと聞いて、落ちる涙を止めることが出来ないとは、その人の境遇に似合わない愚痴と言うものではないか。

 確かにそうだ。愚痴といえば愚痴でもあるだろう。しかし、人情は全て愚痴である。愚痴を離れては人情は無い。たとえ伯爵が石心鉄腸であるにしても、実は人情の凝り固まった人である。良く悲しみ、良く怒り、良く愁い、良く喜べばこそ大いなる復讐も企てるのだ。人情を離れたのではなく、人情と同化したのだ。一意ただ人情に駆られて止むに止まれないことになったと言うべきである。

 特に伯爵の今の身はこの世に一人の友も無く、身よりも無く、単に森江良造だけを、後にも先にも無いただ一人の恩人と思い、無情極まるこの世界にその一家をのみただ人情のある温かい家と思い、絶えて人を慕い、または人を懐かしむという事の無い心の底に、ただ一点の懐かしさをこの一族に寄せているのだもの。この一族のその主人その恩人が、今わ《臨終》の際に誰も覚えていない我が本名を呼んでくれたと聞いて、人一倍情に迫り、耐え難く感じたのが無理か。無理ではない。当然である。

 けれど、ここでは泣いてはならない。もしこの人が何か団友太郎に縁故でも有る身かと疑われては大変である。落ちる涙をようやく紛らわせて、「イヤ、父を失った悲しみは私も好うく知っています。つい貴方のお話でその事を思い出しました。」と言った。なるほどそのために泣いたのかと、一同は納得したが、本当に涙ほど人と人の間を打ち解けさせるものは無い。

 仁吉も夫人も真太郎も、この伯爵が一方ならず情にもろい人だと見て、更に同情を深くして、これからは一層打ち明けた話となり、更に様々な方面からあの富村銀行の事を聞いた。けれど、伯爵の返事は一つである。ただ銀行として取引をするのみでその他の事は何も知らないということにあった。そうして伯爵の最後の言葉は、「イヤ、この世の事は何もかも時ですから、気長く正直に待つ内には、又納得の行く時も来るでしょう。」と言うものであった。

 どうやら謎らしくも聞こえるけれど、誰もその謎を解くことは出来なかった。このようにして、伯爵が立ち去った後に、三人はそれぞれの感じを語り出して比べたが、仁吉は、「イヤ、あの伯爵は本当の善人で、余ほど苦労をした方と見える。」と言い、夫人は、「何だかあの方の声は昔聞いた事が有るように、時々私の腹の底までしみ通りました。」と言い、真太郎は、「どうもこの家のお父さんを知っていた人のようにも思われる。」と言った。

    *     *     *     *     *     *     *     *

 この家を出て伯爵は、この家と背中合わせの見当に当たっているオノレ街に馬車を曲げた。ここには非常に立派な蛭峰の邸がある。しかしこれには入らず、ただその門を眺め、「アアここだ。明日の午後、彼の外出した時間に訪ねて来よう。」と言い、そのまま立ち去った。何ゆえに主人の留守を図って訪ねるのだろう。多分、その夫人のみに会うべき用事でも有るのだろう。

 その翌日の午後である。この家の裏庭と生垣一重を隔てた荒地に、鋤を持った一人の男が立っている。これは森江真太郎なのだ。そもそもこの荒地は昨日伯爵が見た通り江馬仁吉の屋敷の横手から続いているので、実は市区改正の予定境界に当たるので、放ってあるような有様になっているのだ。ここへ何故に真太郎が来ているのだろう。

 彼は昨日もこの荒地から出て伯爵を迎えたが、草花でも作る為かと見れば、そうでも無い。鍬を杖についたまましきりに、蛭峰の裏庭を覗き、時々ため息を漏らしている。もし、恋のためででも無ければ、陸軍大尉である人には不似合いの行為である。やがて彼は耐えかねた様子で更に生垣に寄り添い、葉や枝の少しまばらな所に顔を当てて、又一心に覗き始めた。

 しばらくすると、蛭峰家の裏庭の一方にある隠居所らしい離れ家から、年の頃十八、九と見える一女子が現れた。真太郎はこの姿を見て、嬉しさに何事も忘れたように、持っている鍬まで投げ捨てたが、女子はもの思わしげに静々と歩みながら、真太郎の目の前にある茂ったえんじゅの木陰に来て立ち止まった。「華子さん、華子さん」と真太郎は低い声でしかも熱心に呼んだ。華子とは我が先妻の娘であると昨日蛭峰が伯爵に語ったのが即ちこの女子なのだ。

 呼ばれた声に華子は非常に驚いて顔を上げ、「又あなたはここへ」と言い、更に、「毎日ここで話などしていては、蛭峰夫人に叱られますよ。」蛭峰夫人と言って、お母さんと言わないのは、余り親しむ情の無い継母継子の間が分かる。
 真太郎;「でもあのことが気になって、早く様子を聞きませんと。」華子は逃げ去ろうともしない。かえって、一足生垣に寄り、同じく声を潜めて、「益々難しい事になりました。」

第百三十三終わり
次(百三十四)

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