巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu135

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 4.29

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

百三十五、「一条の約束」

 全く侍女の伝えた通り、巌窟島(いわやじま)伯爵がこの蛭峰家を訪問したのである。折から主人蛭峰は外に出ていて、その夫人が一人内に居た。何ゆえに伯爵が夫人の一人居るところを選んだかは分からないが、兎に角夫人はこの上無き珍客として伯爵を迎え、一昨日自分と共に伯爵に救われた息子重吉を呼んだ上、更に侍女に先妻の娘華子をまで呼ばせた。これは自分と重吉とで礼を言っただけではまだ足りないから華子にまで礼を言わせるためである。勿論アレだけの恩を受けた人に対しては当然の仕方である。

 華子の入って来た姿を見て、伯爵はその美しさに驚いた。そうして先妻の娘だと言って引き合わされた時、成るほど今の夫人にはこの様な優しい令嬢が生まれるはずは無いとまで思い、更に華子という名を聞いては真に名の通り花のようだと思った。もしもこの様な令嬢を我が連れている鞆絵姫の友達にでもしたなら双方ともどれ程喜ぶだろうなどとの空想も続いて起こり、それに従っては自然と華子のほうへ言葉を向ける事になったが、華子が持て囃されるだけ夫人の機嫌が悪くなるのを見てと取ることができた。

 真に些細な事ではあるが、これでこの夫人の気質も良く分かる。イヤ気質は既に来ぬ前から調べ上げて伯爵には分っているが、日頃華子がどれ程継子としてこの夫人にいじめられているかも分かる。全ての人の気質や物事を察するにはこの様な些細な事が大層な鏡になるのだ。少なくても伯爵だけは、目に見える些細な事で、目に見えない大層な事を写し取る眼識と言うものを備えている。

 更に伯爵はもっぱら華子のほうに愛想を示すようにしていたが、夫人はついに耐えかねたと見え、最早やお祖父さんに薬を上げなければならない時間だろうと言う口実をもって華子を追いやった。続いて又、これは何故だか知らないが、重吉をも外に出した。

 そうして自分と伯爵ただ二人の差し向かいとなったが、談話は先ず一昨日の黒人アリーの働きから、移って伯爵が重吉に与えた希代の気付け薬の事に及び、夫人は伯爵の徳を褒めるような口調で、「本当にあれほど好く利くお薬は見たことが有りません。どの様にして作ったお薬でしょう。確か多量に飲めばかえって命にも障るように伺がったかと思いますが。」

 伯爵はこの問いを待っていたのだ。一昨日夫人が気の転倒しているような際にもかかわらず、ひどく毒薬のことなどを聞きたがったことから考え、又伯爵が兼ねて調べているこの家の一家の事情から考えて、どうしても話がここに落ちてこなければ成らない。或いは話をここに来させるためにわざとこの夫人が一人居る時刻を計って来たのかも知れない。夫人が華子や重吉をそれとなく退けたのもやっぱりその辺の意味かもしれない。

 しかし夫人の問いはいかにも自然で、いかにも何気ない語調で出た。伯爵もこれに劣らない何気なさをもって、「毒薬といえば非常に恐ろしく聞こえますが、毒薬と言う日には人間の食物は全て毒薬です。極めて無害なパンでさえも多量に食べれば胃をも脳をも、その他の内臓をも害して、命を落す元になります。これを毒でないといえば世の中に毒と言うものはなくなります。たとえば、モルヒネのようなものでも少量に服すれば薬となりますので、何処の医者でも、モルヒネ無しには営業が出来ません。詰まるところ、毒になるのと薬になるのとは分量の多少にあるので、そのものの性質には無いのです。」

 夫人は大いに納得行った風で、「そうです。そうです。」
 伯爵;「ですから私は、誰に遠慮も無く、前から毒薬の研究をしております。人は毒薬と言いますけれど、私は毒薬とは言わず良薬と言うのです。分量を過ごせばこそ毒になりますけれど、適量を用いれば人の命を助けますもの。何んと良薬では有りませんか。」

 「そうですとも」と夫人は再び賛成して、「一昨日の薬も私が自分で精製しましたので、どの国の薬局にも無く、どの国の医者もほとんど知ら無いでしょう。イヤ、学理の上では知っていても実物を見た事は無いのです。」
 夫人は真に斜めならず感心した様子で、「ですが何から製しますか。」

 伯爵;「極の元はブルシンです。」
 夫人;「ブルシンならば当家の父野々内弾正へ常に医師から与えられていますが。」
 伯爵;「そうでしょう。適度の分量を用いれば主々の効能があるのです。特に私のはそのブルシンをそのままではなく、非常に変化させて有るのです。」
 夫人;「それはどの様にして」
 
 伯爵;「こうです、第一にブルシンとある塩類とを混ぜたものをある野菜に注ぐのです。それも分量が過ぎると野菜がすぐに枯れますけれど、最初には極微の少量を用い、日を経るに従い段々に増やして行けば、野菜はついに毒に勝つ力が出来て、後に余程の多量を注いでも、青々として育ちます。その育った野菜をウサギに与えればウサギは頓死します。そのウサギの肉を鳥に与え、鳥の肉を魚類に与えれば毒は依然として存し、科学者がどの様に分析するとも、その元の質が分らずこれを人に飲ませて、その人が死ぬと共に医者が解剖しても、中毒だと証明できなくなります。」

 大抵の夫人ならば身震いして聞く、恐ろしい話だけれど、この夫人は益々熱心になるばかりだ。伯爵は語を継いだ、「大抵はこのような事ですが、細かい手続きは専門家で無ければ聞いても分りません。なぜ私がこの様な苦心をするかといえば、こうして作り上げた薬が何の病にも即効が有るのです。その一例は一昨日ご覧の通りですが、少量に用いれば咳にも聞けば胃痛にも効き、特にリュウマチスの痛みのごときは飲むと直ぐ消えてしまいます。」

 夫人は飛び付くように、「エ、リュウマチスに、その様に効きますか。私はリュウマチスで、夜など眠られないほどのことさえ度々(たびたび)ありますが。どうか分けて頂くわけには行きますまいか。」 伯爵は少し考えて、「何しろ分量が精密でなくては危険ですから、少しも薬学の知識がない方にはーーーー」

 夫人;「イイエ、私は多少薬学も知っています。この家に来る前から大抵の薬は自分で調合しましたが、特に分量などは間違える恐れは有りません。どうか分量を明記した上、一瓶頂きたいものです。」
 伯爵;「イヤ、薬の分量計るのにそれほど経験がお有りなさるなら、安心して差し上げる事が出来ます。明朝分量を記した上、持たせて寄越しましょう。」

 ここに一条の約束が成り立った。

第百三十五終わり
次(百三十六)

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