巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu136

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 4.30

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

百三十六、「彼です彼です」

 毒薬は、人に貰うべきものではなく、又やるべきもので無い。けれど伯爵の言葉のように、世に毒薬は無い、ただ分量にあるのだといえば、貰うにも貰いやすく、又蛭峰夫人の言葉のように、その分量を知っていてリュウマチスの薬に使うと言えば遣(や)るにも遣(や)りやすい。兎も角妙な約束ではあるけれど。上げましょう。貰いましょう。と話が決まって、果たしてこの翌日伯爵は、澄みきった清水のような水薬を一瓶、詳しい注意の書面と共に蛭峰夫人の元に届けた。

 もっとも伯爵が辞し去るときに、夫人は切に引き止めて、ぜひとも夫蛭峰の帰るまで居て晩餐を共にせられよとすすめたけれど、伯爵は今夜生憎ギリシャの或る姫君を大劇場に連れて行く約束があるから長居は出来ないと言って断った。なんでも伯爵はなるべく人と食事を共にしては成らないという或る宗教の戒めを守っている為でもあろうか。食事を勧められる場合には、何とか間とか口実を作って去ってしまう。野西次郎の家でも、段倉の家でも全てこの通りであった。
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 しかしこの口実は嘘ではなかった。全くこの夜、伯爵は鞆絵姫を連れて大劇場に行った。勿論多くの紳士、貴婦人、社交家などが集まっているのだから、伯爵の評判は俳優の評判よりも高く、所々の桟敷から挨拶など受けたけれど、伯爵は姫を守護してでもいるように、決して自分の席を離れなかった。がそのうちに別な方の段倉夫人の居る桟敷にあの野西子爵が現れた。多分子爵の息子武之助と夫人の娘夕蝉嬢との間に結婚の話がほとんど熟し掛けているために双方特に親密さを深める為であろう。

 勿論夫人の傍に夕蝉嬢が居るのである。しかし夫たるべき武之助の方は他の桟敷に来ていながら一度も顔を出さない。或いは世間の噂通り、親同士がこの結婚を望むほど当人同士が熱心でないためであろうか。絶えて二人が顔を見合わすことさえしないのは有りふれた、結婚前の男女の中とは違い、かえって嫌い合っている程にも見える。これ等の様子は多分伯爵がその鋭い眼で見て取ったところだろう。

 やがて野西次郎が席に着き、夫人と二言三言話の終わった頃、伯爵は今こそよけれと思った様子で、今まで堅く守っていた座を離れ、この桟敷に訪ねて来た。段倉夫人の驚喜と恭悦は言うまでも無い。彼の栃色を返された礼、その額に付いていたダイヤモンドの礼、蛭峰夫人親子が救われた礼など、臨席の人の耳障りとなるまでに声高く畳み掛けて述べ立てたが、そのようやく静まると共に、伯爵と次郎の間に熱心な握手があった。これは当然な事とは言え、何となく我が敵の手を握るのにためらった今までの伯爵の行為としては少し不思議とも思われる。

 その不思議に驚いたわけでもないだろうが、こっちの桟敷から始終伯爵のする事に目も離さないほど眺めていた鞆絵姫は、この時「きゃっ」と一声叫んで打ち倒れた。全く気絶した状態である。早くもこれを認めたのは夕蝉嬢で、「オヤ、伯爵、大変ですよ。貴方のお連れの方がアレ」。

 伯爵は振り返って、「アア余り人混みに慣れないものですから、イヤ、段倉夫人、野西子爵、匆々(そうそう)《あわただしい》ながらこれでお暇(いとま)しなければならない事態になりました。」と言って立ち上がった。

 もとより引き止める場合で無いから、「お察し申します。」とか、「お大事に」とか思い思いに同情らしい言葉を吐いて送ったが、直ぐに伯爵は自分の桟敷に帰り、この時ようやく人心地に返った姫を助けて廊下に出、更に出口まで連れて行って共々馬車に乗った。馬車が走り始めると、初めて姫は口を開き、「貴方様はまあ、あのような人の手をお握りなされましたか。」

 伯爵は怪しむように、「あのような人とは」姫の心はひどく激していることが声の調子にまで分っている。「次郎です。野西次郎です。」伯爵は再び怪しむように、「エ、野西次郎を貴方がどうして知っておられます。」
 姫;「知らないでどうしますか。私の父の領するヤミナ国を滅ぼしてトルコに売り渡したフランス士官が彼ですのに。」

 言うまでもなく、伯爵はよく知っている。ただ万に一つの人違いが有りはしないかと今夜その試験のためここへ来たのだ。そうしてわざわざ厭(いと)わしい彼の手を握り、この鞆絵姫に見させたのだ。
 伯爵;「成るほど、その様な話を聞いた事が有ります。その貴方の父の国を売ったフランス士官が全く彼に違いは無いのですか。」

 姫;「私の目の底に彼の顔は死ぬまで残っています。彼です。彼です。」
 伯爵;「そうとは知りませんでした。イヤ姫よ。再び貴方を、彼の顔の見えるような所には連れて行きませんから、良く心を落ち着けなさい。ナニ悪には悪の報いが有ります。果たして彼がその様な悪人ならば、何時までも天が栄えさせては置きませんから。ただ安心して天に祈ればよいのです。彼がその様な事をした一部始終は屋敷に帰って良く伺いましょう。」

 言ううちに馬車はエリシー街の屋敷に着いた。伯爵のする事が何のためだか分らないようで、実は一々深い目的を包んでいる事はこの一事でも分かる。

第百三十六終わり
次(百三十七)

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