巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu138

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 5.2

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

百三十八、「侯爵と小侯爵」

 「侯爵皮春博人」その子「小侯爵皮春永太郎」ただ名を聞いただけでも何となく尊敬の念が生じる。成るほど伯爵がこのような貴賓を待ち受けているとすれば、今夜我が家へ来て母と一緒に晩餐の出来ないのはもっともだと武の助は感じた。

 「イヤそれでは致し方有りません。」と彼は言い、更に「皮春侯爵とは苗字からして古い家らしく聞えますね。」
 伯爵;「古いことは恐らくイタリア第一か第二でしょう。ダンテの有名な地獄の詩にもその大十章に皮春家という語が見えているでは有りませんか。」
 武之助;「アアそうそう、皮春という姓はダンテの著書で読んだのだ。あの頃でさえも既に詩に引かれるほどの旧家であったのなら、この国に来れば又社交界を動かしましょう。財産は余ほど有るのですか。」

 伯爵;「そうですね、良くは知りませんが、噂に聞いたところでは余ほど厳しい家風で、昔から倹約と貯蓄を第一義にしていたため、余ほど金銀があると言います。しかし、ナニ歳入は僅か五十万円くらいだろうと思います。」五十万円の歳入を「僅か」などと、伯爵ならばこそ言われるが、外の人なら肝を潰さずには居られない。

 武之助は目をむいて「エ、大変な「僅か」ですねえ。もしその方が金を使うのに器用な方なら、パリの社交界を転倒させることも出来ますが。」
 伯爵;「駄目ですよ。五十万のうちで、年に三十万は貯蓄するでしょう。いや貯蓄した積もりで家令や家扶に盗まれてしまうのでしょう。さもなければ今頃は皮春家は世界一の大富豪になっていなければ成りません。兎に角博人氏自身使うのは1年にやっと二万くらいでしょう。」

 武之助;「それでも大したものですねえ。」
 伯爵;「その代わり息子のほうは、少し父と違い当世のことが分っていますから自分の代になれば、随分使うでしょう。」
 武之助;「今は幾つくらいですか。」
 伯爵;「貴方より三、四歳下でしょうか。これからパリーの社交界の状態を理解させる為にと言って、父侯爵が連れて来て私に預けるのです。私自身がまだ深くは社交界の様子を知らないのに、人の手引きを託されるとは、迷惑な次第ですが、止むを得ません。」

 武之助;「イイエ、貴方の保護を受けて社交界に出るのなら、これ以上のことは有りません。」
 伯爵;「兎に角、貴方の友達とするに足る年頃ですから、どうか特別に面倒を見てやって頂きたいのです。」
 武之助;「及ぶだけ骨を折りましょう。もしも、その小侯爵皮春永太郎君が、パリで金持ちの娘を妻にでもしたいというなら、早速私が有名な銀行家の娘で、しかも男爵令嬢といわれ、女一通りの習い事を全て習得した美人を見つけてあげます。」とこれは少し笑いながら言った。

 その意味は明らかである。自分の許婚段倉夕蝉嬢を指すのである。これで見ても武之助がどれ程夕蝉嬢と肌が合わないかは益々分かる。
 伯爵;「イヤ冗談はさて置いて」
 武之助;「冗談では有りません。真剣です。特に歳入五十万もある侯爵家の令息と聞けば、父母当人も、どの様な先約をも断る気になりますよ。」

 更に二、三の雑談があった末、武之助は辞して去った。それにつけても驚かされるのはこの巌窟島伯爵の忙しさ加減である。一方に一人の身には負いきれないほどの大仕事を負い、そのために訪問や接待や命令や計略やなど様々なことを行いながら、更に他人を社交界に連れて出る世話までも引き受けるとは、ほとんど理解できないほどの状態だ。けれど又良く考えればこの皮春侯爵親子を社交界に引き出すというのも矢張りその大仕事の一部分かもしれない。これを引き出さなければ目的が達しないのかもしれない。兎も角皮春侯爵親子がどの様な人で、どの様に社交界に引き出されるかは、目をこすってみるべきところだろう。

      *       *       *       *       *      *

 話は全く代わって、或る所に或る憐れむべき青年が有った。自分が何者の子かということをも知らない。多分幼い頃に父母に捨てられでもしたのだろう。もとより今までどの様に育ったのかは自分でよく知っているが、今から先の見込みと言っては少しも無い。

 今泊まっている宿屋の払いもどうする当ても無い。小遣い銭も無く、寒さが来ても着物を得る手段が無い。その上に世間は全くこの青年に対して閉ざされた門のようなものである。世間に出ることは一歩も出来ないのだ。知人も頼る人も居ない。

 詰まるところは乞食になるか泥棒になるかの二つに一つしか無い。イヤ実は早やこの二つとも行っているかもしれない。これを行わなければ河にでも身を投げて、この世から立ち去る事しか残っていない。心柄であるか不幸せであるかそれは知らないが、どちらにしても世の中にこれほどの心細い境遇がまたとあるだろうか。
 ところがこの青年に意外にも手紙が来た。しかも驚くべき手紙である。

 お前は今ほとんど飢えにも迫られる上、この後の希望が少しも無い。お前は明日をどの様にして暮らす気か。本当に情けない状況ではないか。しかしお前はこのような哀れな状態で果てる身ではないのだ。お前がもし生まれ変わったような栄耀栄華を得ようとしたければ、直ぐにニス市に行き、ポルト・ゼネの街道に出て、馬車を雇い、パリに行け。

 そうして今月二十六日の夕の七時に、パリはエリシー街の巌窟島伯爵の邸に行き、伯爵に面会を求めて、「私の父に会わせて下さい。」と請い願い、お前の父はイタリアの侯爵皮春博人なり。博人と小品侯爵令嬢折葉姫との間に生まれたのが即ちお前で、お前は五歳の時侯爵の敵に奪い去られたものである。巌窟島伯爵の邸でお前の父皮春侯爵はお前の身の上を証明する書類をお前に渡して父子の対面を済ませ、そうしてお前を小侯爵皮春永太郎という本名を持ってパリの社交界に紹介しようと言って、切実にお前を待っている。

 パリに行って後はお前の収入は2万円(五万リブル)である。もって小侯爵としてお前の身を支えるには足るべし。この金は巌窟島伯爵から受け取るように。ここにはパリへ向けお前の出発の費用として二千円の為替を封入する。ニス市にある笛羅銀行で受け取るように。外に封入してある一封は私の名前をもって、お前を巌窟島伯爵に紹介する添え書きで、更に万事お前の欠乏を満たすよう一切の世話を伯爵に頼んであるものなり。
                    船乗り 新八

 何んと珍しい事柄ではないか。しかし、このほかに更に一人、ほとんどこれと同じような手紙を受け取った人が有ったとしたら、又一層珍しいと言うべきであろう。

第百三十八終わり
次(百三十九)

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