gankutu141
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2011. 5.5
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
百四十一、「一掴(ひとつ)かみの砂」
一万円(現在の約7千万円)は今夜即金でくれ、残る四万円は明日直ぐに段倉銀行へ預け入れて、何時でも勝手に引き出せるようにしておいてくれ、その上、それが無くなれば何度でも五万円づつ同じことを繰り返してくれるとは、世にこれほど有り難いことがあるだろうか。金のなる木の山林を持ったとしてもこうまでは行かない。皮春侯爵は今までのあたふたした様子が、嬉しさと変わってしまって、そうしてただ少しばかり何処かに不安の様子のある外は全くの侯爵らしい。
巌窟島(いわやじま)伯爵は僕(しもべ)を呼んで、財布を持ってこいと命じた。命に応じて財布を持って来た僕は伯爵にささやいた。「ただ今皮春永太郎という若い方がお見えになりました。」
アアかの、船乗り新八から手紙を受けた青年がやって来たのだ。これも刻限を守ることが中々正直だ。「第二の接見所に通して置け。」と伯爵は小声で言い渡してその僕を下がらせた。
後で又皮春侯爵に向かい、「貴方は今夜ここで子息永太郎君に会うことが出来るのですがーーーーー」半分聞いて侯爵は「オオ懐かしい。永太郎、永太郎、確か分かれた頃は永坊とのみ読んでいたがきっと大きくなったことだろう。永坊、永坊、ようやく度胸が据わったと見えて、呆れるほど演技が上手くなった。もしもかの暮内法師が、この人なら侯爵の役が勤まるだろうと見立てて寄越したものとすれば、その見立ては図星に当たったと言っても好い。
伯爵はおかしさと感心したことを少しも見せずに、「会えば貴方は御子息に戸籍の写し、その他誕生を証明する書類を与えて、成るほど俺は侯爵の息子に違いないという安心を与えてやらなければ成りません。きっとその様な書類は御持参でしょうね。」
皮春侯爵は冷水を浴びせられたように驚いた。「アア、すっかり失念しました。」と言い、更に恐る恐る探るように聞いた。
「そのような書類が無ければ、手紙の尚々書は実行が出来ないでしょうか。」尚々書とは金の件である。もしも、書類が無い為に万事が破れて、ここを去るにしても、尚々書のいくらかは実行してもらいたいのだ。侯爵の目は、伯爵の持っている財布と伯爵の顔に五分五分に注いでいる。
伯爵;「イヤナニ、尚々書は書類に関係なく実行するのです。私は暮内法師に古い借りがあって、法師から金銭上の差し図を受ければ、何事にもかかわらず従わなければ成らないのです。」侯爵はほっと息をした。
伯爵;「しかし、戸籍の写しをご持参が無くては困りましたな。もし、永太郎君が、果たして親子だろうかと疑った時は貴方はどうなさりますか。」
公爵;「ナニ、それは自然の血筋だから争はれません。必ず双方の血管に真実のうれしさが鼓動して、書類の証明よりも確かに感知する事が出来るのです。いいえ、伯爵、私は早や何だか自分の息子が遠からぬところに居るような感じがして、アレこの通り体がぞくぞくします。懐かしい。オオ懐かしい。」
伯爵;「ごもっともです。ではこう致しましょう。幸い暮内法師から、戸籍その他必要な証拠書類を、正式に謄写して、一通私の許(もと)に寄越してあります。それを貴方に上げますから貴方の手で更に御子息へお渡しなさい。」
侯爵は三拝も九拝もしないばかりである。「アア、ナニから何まで落ちも無く行き届いた貴方のお計らいにはただひたすら痛み入ります。そう致しましょう。ハイ、仰せの通りに致しましょう。本当に私はお察しの通り万事が家扶任せであったため、一人旅などに出ては気が付かないことばかりです。どうかこの後も行き届かないところは一々貴方のお心付けを願います。」
伯爵は書類と言うのを取って来て渡した。侯爵は開いて読んだ。勿論侯爵と折葉姫との結婚から永太郎の生まれた戸籍の登記、その他侯爵家の財産の概略まで、全て分かっている。「アア、これを永太郎に渡せば彼は必ず歓喜します。」
伯爵;「では、お約束の一万円ここで差し上げておきますから。」と言って財布から百円札百枚の束を出して渡した。侯爵はあたかも、空気に当てては消えてしまいでもする品か何かの様に慌ててポケットにねじ込んだ。この飢えている様な行為だけは流石の演技者も隠すことが出来ない天性だと見える。
伯爵は更に、「では、ただ今永太郎君をここへ寄越しますから、三十分ほどここでお待ちください。今私が出て行くドアのところから若い立派な方が入って来たならそれが即ち永太郎君ですから。」こう言って伯爵は退席した。
もし今ここで、皮春侯爵のために第一番の得策を言うなら、受け取った一万円に満足してソット立ち去ることにあるかも知れ無い。けれど、侯爵はそれほどの智慧者では無い。いや、それほどの愚人では無い。
五万円、十万円、社交場、栄耀栄華など、いわゆる宝の山が眼前に横たわっていて、今はただその山の入り口で、一掴みの砂を握っただけの様なわけに過ぎないのだもの、何が何だってこのまま立ち去れるものか。宝の山の奥の院までは行き着いて見なければならないと、十分決心しているのは度胸もかなりあると見える。しかし、そのただ一掴みの砂を、中々その身には嬉しいと見え、三十分待つ間にその砂を取り出しては又納め、ほとんど余念もなく又待ち遠しいとも感じない様子であった。
その間に伯爵は、果たしてどの様な永太郎にどの様に会うことだろう。
第百四十一終わり
次(百四十二)
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