巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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gankutu147

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 5.11

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

百四十七、「空前の奇観」

 この翌日は金曜日である。大仕事の序曲と思われる土曜日の晩餐会が直ぐ明日に押し迫ったのだ。もし伯爵が晩餐会について何か準備を要すとならば、この日のうちに実施しておかなければ成らないだろう。準備は大抵整っている。ただ伯爵の気にかかることは場所が吹上小路であるために、もしや肝腎の蛭峰が、自分の旧悪を思い出し、恐れて出席を断りはしないかという心配である。

 既に蛭峰の妻からは勿論参上と言う返事を得ているが、なおも念のため蛭峰自身から直接にしっかりした返事を聞いておかなければならない。このために伯爵は先ず蛭峰の邸を目指して家を出た。
 しかし伯爵はこのほかにも多少の用事を持っている。その一つは蛭峰の家の後町に当たる大尉森江真太郎の一家を訪ねることである。

 伯爵は何時でもこの辺に来ると森江の許へ立ち寄らずには帰ることは出来ない。全く森江一家をこの世に於いてただ一つの善人の家と思って大尉真太郎をわが子とも言うほどに愛(いつく)しんで、嬉しさにも悲しさにも全て彼の顔を見たいのだ。それを見れば嬉しさはますます度を増し、悲しさはたちまち消えるというほどの状態である。これのためにこの日も蛭峰の家よりも前に先ず真太郎の家に立ち寄った。

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 もし蛭峰の家に先に立ち寄ったならば大変な椿事を見ることが出来るところであった。蛭峰の家には、彼が伯爵にも話した通り今なおその父の野々内弾正が生きていて、中風のため全身不随とは言え、心だけは確かであって、奥庭の隠居所にこもっている。丁度伯爵が森江の家に近づいた頃、この隠居所へ入って来たのは蛭峰の先妻の娘、かの華子である。多分、今日も垣根越しに真太郎と何か話でもしていて祖父に薬を勧める時刻となったため別れてここに来たのであろう。顔には未だ心配の色が残っている。

 この姿を見て病人は、「オオ、待っていた」というように、嬉しくその眼を光らせた。全身で動くのはただ眼だけとは憐れむべき病気である。
 先ず薬を飲ませた上、静かに祖父の顔に顔を寄せ、「お祖父さん、大変なことになりましたよ。いよいよ毛脛安雄さんの帰朝の日が決まったという事です。今朝お父さんから私にその話がありまして、―――そうして」と言いかけて祖父の顔を見ると、一々聞き取って理解していると見え、眼を張り開いている。

 「そうしてねえ、どうしても結婚の証書に署名せよと言い、無理に私を承知させました。多分後ほどにはお父さんとお母さんがその証書を持ってここに来るでしょう。如何したら好いでしょう。」
聞いたところで返事の出来ない病人に、何の甲斐があるものぞ。

 しかし、華子は更に語を継ぎ、「今も真太郎さんに会い、その事を相談しましたけれど、あの方も途方にくれて、もうこの上は自分が父のように頼みとする巌窟島伯爵へ相談してみるばかりだと言いました。巌窟島伯爵とは、ソレ先日私がお話をしたアノお母さんと重吉とを救ってくださったかたですよ。真太郎さんの言うには、この方は真に人間以上とも言うほどの力が有り、何事でも自分の意のままに振り替えることが出来、それにこの家のお父さんからも尊敬を受けているから、どうにか工夫が有るかもしれないと、このように言うのです。もし、伯爵の力でどうにも成らなければ、その時は最後の非常手段に訴えるのだと言いました。非常手段とは何事だか知りませんが、あのような熱心な方ですから、私は自殺でもする気では無いだろうかと本当に悲しくなりましたよ。エ、お祖父さん、貴方は先日、私と毛脛安雄とを結婚の出来ないように遮ってやると請合ってくださったが、オオ、遮ると言ったところでこのお体で、何をなさることも出来ず、お祖父さん、お祖父さん、今でも何か、その工夫がお有りですか。」

 祖父;「あるよ」、「有るよ」と口で言う事は出来ない。目で言った。そもそもこの野々内弾正の、目で言う言葉を聞きとることが出来るのは華子と父の蛭峰と、永年弾正に使えている一人の老僕の三人である。蛭峰夫人ごときは数年この部屋には来るけれど、目のことばに対しては聾同様である。少しも解することが出来ない。又解しようともしないのだ。」

 華子;「では今直ぐに遮りとめてくださいますか。今でなくては、結婚証書へ署名させられた後では如何(どう)することも出来ませんが。」
 弾正;「然り」
 華子;「それでは直ぐに、お父さんをここに連れて来て戴きましょうか。」
 祖父;「然り」

 「然り」と言うときには、静かに目を閉じて安心の様子を示すのだ。「否」と言うときには、忙しく瞬(まばた)きをするのだ。そのほかに右の目だけを閉じるのと左の目だけを閉じるのと、合計四つの合図がある。とは言えただ四つだけの合図で、どうして結婚を押しとどめて、破談にさせると言ったような複雑な駆け引きが出来るだろう。頼りないばかりである。

 けれど、華子は頼りないと思わないのか、少し力を得たようすで、ここを立ち去り、直ぐに父蛭峰を連れて来た。
 蛭峰は非常に険しい顔をして弾正の枕元に座し、「何か華子の結婚にことに付いて、私にお話がありますか。」
 弾正;「然り、」と答えて次に「否」と答えた。蛭峰は半ば華子に向かい、「それ、「然り」と「否」とを混同なさるほどだから、もうお心も確かでは無い。何事も耳に入れないほうが好いだろう。」

 早や父の干渉を撥ね退けている。弾正の眼は鋭く開き、ほとんど叱りつけるように蛭峰の顔を射た。その意味は良く分っているけれど、蛭峰は分らない振りをして「アア御可愛そうに、一日一日、お心も混濁(こんだく)すると見える。」

 何と言う不幸な男だろう。華子は父に向かい、「いいえ、そうでは有りませんよ。「然り」と「否」とを重ねて仰るのは、結婚の事にも話があり、結婚でないことにも話があるとのお知らせです。今までも何度もなさった合図です。ねえ、お祖父さん。」

 弾正;「然り、然り」
 蛭峰;「そう沢山のお話が一時に出来るものか。強いてすればご病気に障るに極まっている。」弾正は異様な眼で部屋の隅をジット眺めた。華子はその意を察し、「アア部屋の隅にある字引を持って来るのですか。」と言い直ぐに立って、手軽な一冊の字引を持って来た。そうしてABCの頭文字を順に指し示すと、Nの字に到って「然り」と目を閉じた。Nの字に始まることばは千万無量の数である。

 成るほどそれを一々探していては、とても沢山の話は出来無い。けれど、華子は機転を利かせ、自分の口で母音の五文字をゆっくりと繰り返すと、Oの文字に到って又眼の言葉があった。今度は更に字引のN、Oの部で順に一字づつ指差してゆくとNotaryの語に及んで留まった。これは公証人と言う心なのだ。

 華子;「では公証人を呼んで来るのですか」
 弾正;「然り」
 蛭峰は驚いた。「公証人とは遺言か何かを作るのではなくては用事の無い人ですが、貴方は遺言でも作りたいのですか。」
 弾正の眼;「勿論然り」
 全身不随、口さえも聞けない人が、遺言状を作るとは空前の奇観である。

第百四十七終わり
次(百四十八)

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