巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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gankutu148

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 5.12

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

百四十八、「公証人」

 全身不随とは言え野々内弾正は確かに遺言状を作る資格がある。何故ならばこの人は息子蛭峰の家に隠居してはいるけれど、蛭峰の厄介になっているのではない。自分で独立の財産を持っているのだ。死ぬ前に遺言状を作り、この財産の始末をつけて置くのが当然である。

 財産の額がいかほどであるかは、蛭峰も知らない。けれど、一寸やそっとでないことだけは分かっている。昔は共和党の幾部分かは、ほとんどこの人の財産を運動費の主な出所と仰(あお)いでいたこともあるのだから、通例世間で財産家と言いはやされている人の財産よりは多いかもしれない。

 もし、この人が遺言状を作らずに死ぬ事になれば、父と言い子と言う縁で自然にその財産が蛭峰のものになるのだ。今が今まで蛭峰は内々これを当てにしていた。
 ところが今ここでわざわざ遺言を作りたいとは、蛭峰より外の者にその財産を残したいという意味に決まっている。蛭峰は驚いて加勢のために我が妻を呼びに行った。

 その後で華子は祖父弾正の眼に急(せ)き立てられ老僕を公証人のところに向かいに出した。引違がえて蛭峰は妻と共にここへ来た。妻は非常に神妙に弾正の顔を覗き、優しい声で「お父さん、お父さん」と日頃余り用いたことのない親身な呼び方を用い、「貴方は遺言を作ると仰(おっしゃ)るなら華子を相続人になさるお積りでしょう。

 幾ら華子が貴方の御介抱を引き受けているとは言え、少しは公平と言うことを考えてくださいまし。華子は既に母御から残された財産が結婚資金に余るほど有って、その上に米良田のお祖父さんからもお祖母さんからもありだけの財産を華子に残すことに決まっています。もう華子の身には多すぎるほどの遺産が付いています。一切を積もれば何百万と言う額になります。この上に又貴方の遺産を加えては、必ず多すぎて決して華子の幸福にはなりませんよ。」と自分の欲心をむき出しにして、非常に無遠慮に口説き立てた。

 「ねい、お祖父さん、貴方は華子を相続人になさるのでしょう。」弾正の眼は「否」そうでは無いとの意を示した。
 そうでは無い。華子では無い。それなら誰だろう。蛭峰夫人は驚くと同時に喜んで、

 「オオ、お祖父さん、華子でなくて私の子重吉を相続人にして下さるのですか。ああ、それでは公証人をお呼びするのもご無理では無い。イイエ、そうですとも、華子とても、重吉とても、同様に貴方の孫で、特に重吉は男、後々財産次第でどれほどの出世ができるかも知れません。それに彼は可愛そうにまだ誰からも遺産など受けてはいません。貴方が彼を相続人として下されば、―――」

 弾正の眼は先刻から引っきり無しに瞬(まばた)きをして「否」、「否」、「否」と続けざまに拒絶している。夫人は初めて気が付いて、非常に腹立たしく、「オヤ、重吉でもないのですか。それなら誰です。誰を貴方は遺言状へ書き入れるのです。」
 聞いたとて返事の出来るはずは無い。弾正はただ眼を張り開いて、あたかも「この欲く深き女めが」と言うように夫人の顔を睨み付けた。

 けれど、夫人は中々めげない。「アア、やっぱりお祖父さんは、もうお心まで衰えて、好くは物事がお分かりなさらないのだ。ご覧よ、華子、あのように目を大きくなさるのは符牒《合図》には無いのだろう。然りとか否とか言う符牒《合図》を間違えてあのようにお睨みなさるのだろうよ。」
 哀れむべき老父に対しこのような言葉を加えるとは実に鬼のするような仕業だけれど、この夫人の後々の所行を見ればこれくらいの鬼々しさは怪しむにも足りないのだ。

 この様な所に老僕に迎いられて、近所の公証人が入って来た。蛭峰はあわただしくこれに向かい「イヤ、ご苦労では有りますが、ご覧の通り遺言を作るべき本人が全身不随で、声を出すことも出来ず、勿論自分の思うところを正当に言い表す手段が無いのですから、この有様をお見届けのうえ、一家の不幸をかもし出さないように願います。」

 とは遺言を作る資格の無い廃疾の人と見なして立ち去ってくれとの謎であるけれど、この公証人は、来る途中で詳しく老僕から話を聞き、眼の言葉を華子嬢の通訳でどの様な問答も出来ることを知っている。そればかりかこのような空前の遺言状を自分が引き受けて作った上、その顛末を法律雑誌にでも、寄稿すれば自分の盛名は富に上がり、パリー第一流の公証人に数えられることも出来ると、一方なら無い熱心さをもってここに来たので、簡単には蛭峰の手には乗らない。

 「イヤ、本人の容態などはお使いの方から良く聞きました。兎も角、何らかの手段をもって思想を表すことが出来る人なら、ご存知の通り遺言状を作る権利があって、それを公証人たるものが無視する事は出来ません。」勿論蛭峰は二十幾年来自分が法律を取扱う職にいて、今は全国に一人の大検事という位置をまで占めるだけに、「ご存知の通り」と言われても仕方が無い。「イイエ知りません」と言うことは出来ない。

 公証人はなおも熱心に、「確か本人が眼で発する言葉を、イヤ合図を、孫娘の方が正当に通訳する事が出来るように聞きましたから、私は第一にその眼の合図が果たして正当に当人の意思を表しているかを試験し、第二に孫娘の通訳法が果たして正当であるかを見届け、その上で、自分の職務を行うべきだと思います。勿論非常に責任の重いわけですから、実はただ今寄り道して同業の一人を立会人に頼んで来ました。」

 成るほど別に一人の同業者まで立ち合わせてする事になら、最早や、遮る口実は無い。蛭峰が非常に不興そうに口をつぐむところに、丁度その一人の同業と言うのが又やって来た。

第百四十八終わり
次(百四十九)

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