gankutu152
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2011. 5.15
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
百五十二、「掌中から何か紙切」
森江は答えた、「ハイ、蛭峰氏には会いませんでした。」
肝腎のこの会に蛭峰が来なければ大変である。巌窟島伯爵は心配した。しかし、好く思えば昨日あの通り釘を打っておいたのだから、来ないはずは決して無い。
森江;「しかし、伯爵、まだ約束の時間よりは五分ほど早いでは有りませんか。刻限にはきっと来ますよ。ただ私だけは馬の俊足を試したくも有り、かつ又誰も来ない前に貴方にお話をしたいことが有って、それでこの通り急いで来たのです。
伯爵;「エ、私に話したいこととは。」
森江;「ナニ、私の妹とその夫江馬仁吉が、毎日のように貴方の事ばかり言って暮らして居ますから、どうかこの後ともお暇のある毎に必ず訪ねておやりくださる様にお願いしたいのです。」
これは伯爵にとっては願ったりかなったりと言うものである。伯爵は江馬仁吉夫婦の家をこの世にただ一つの清浄な家庭となし、今までも機会さえあれば訪ねている上に、更にこの後もそうしたいのである。伯爵の顔には嬉しそうな笑みが見えた。「その事ならば私の方で望むところだとお伝えください。」
言葉が丁度終わるところに又二頭の馬が着いた。これは出部嶺と砂田伯とである。二人が馬を下りるや否や又着いたのは段倉夫婦の馬車である。これには先頃伯爵が一度買い取って直ぐに返したあの栃色の馬二頭が付いている。この馬車が止まると見るや否や出部嶺は直ぐにその窓に近づき手を出して段倉夫人をこれに縋(すが)らせた。夫人は縋りながら誰にも知らさず自分の掌中から何か紙切れのようなものを出部嶺の手に握らせた。その技の早いことは全く誰の目にも留まらなかったが、ただ巌窟島伯爵の炯眼(けいがん)《鋭い目》だけには見て取られた。
伯爵は密かにうなづいた。「アノ早いところを見ると、二人の間に永くし慣れていることと見える。現在、夫の目の前で仇し男と平気で密書をのやり取りするとは、そうだ、このような不義の楽しみが持って生まれた夫人の癖かもしれない。夫人に続いて段倉男爵も馬車から出た。彼の顔色はいつも赤みばしって生き生きしているのに、今日に限ってほとんど土のようである。
その仔細は問うに及ばない。昨夜から今日にかけて、運の神、はた又福の神である自分の妻の為に株式市場で二百万円からの損を蒙らされたためである。実際の損は二百万円でも、彼のスペイン公債を売らずにいたなら、確かに二百万円儲かるところであったのだから、その取り逃がした儲けを加えると四百万円の損である。どれ程偉い相場師でも一朝に四百万円の損は顔色に表さないわけには行かない。まして段倉のごとき既に十分の位置が出来て、公債というような手堅いものの買占めにのみ着手し最早相場師とは言われないほどに手を締めて極確実にやっているものの身にとっては、ほとんど回復の道の無い大打撃である。
伯爵は気持ちよく思う心を隠して、彼を迎えた。そうしてこれからこの人々に、盆栽室から美術室などを見せたが、全く伯爵の富の度合いには誰も驚かないわけには行かない。壁に掛けた一枚の絵といえども、床に飾った一塊の置物といえども、皆それぞれに有名な来歴が有って、或いは朝廷が所望したけれど、持ち主が手放さなかったとか、或いは余り高価なために博物館が買い入れることが出来なかったとか言うような品ばかりである。
一応これ等を見終わって、客室に帰った時、取次ぎの声で、「皮春侯爵及び皮春小侯爵がお見えになりました。」と聞こえ、声と共に金色燦然たる勲章四、五個を胸に飾ったぎこちない老軍人と紅顔の一美少年とが入って来た。
イタリアの古い貴族名鑑を見た人なら皮春という一族がどれ程旧家であるかは勿論知っている。一同はこの名を聞いただけで、早や多数の尊敬の念が生じた。中でも段倉は伯爵に向かい、「皮春とはイタリアの皇族から出た家柄だと言いますが、財産はどうですかね。」と聞いた。伯爵は少し嘲るように、「イタリアの貴族には貧乏が付き物では有りませんか。歳入が僅かに五十万円ですもの。」
歳入五十万円の貧乏とは驚くべしだ。大金満家と自負している段倉自身より富んでいる。段倉は胸に思った。「フム、この伯爵が、こう嘲るように言うところを見ると、必ず財産においてこの伯爵と雄を争うほどの敵なんだな」と、そうして又聞いた。「何のためにこのパリーに来たのでしょう。」
伯爵;「生意気に金を使いに来たなどと言っています。、なあに親代々の倹約家ですもの、使うと言っても、幾らも使いますものか。しかし彼の財政上のことは私より貴方がよく知っているでしょう。一昨夜私が会った時、段倉銀行を指定されているが、確実だろうかなどと聞きました。それだから私は今夜貴方のために彼を招いたのです。傍にいた段倉夫人は浮気な性分の常と見え、「アノ小侯爵と言う方は非常に美しい方ですねえ。」
伯爵;「ハイ、彼はこの国の学校で先日まで修業していたのですから、親よりは幾らか金を使う道も知っているでしょう。何でもパリーで妻を捜すのだそうです。」
段倉夫人;「アレまあ、小子爵よりよっぽど男が好いでは有りませんか。」
小子爵とは自分の娘夕蝉の婿として見立ててある野西武之助のことである。早や、武之助よりこの永太郎に乗り換えたい心を起したのかも知れ無い。伯爵は腹の中で非常に満足した。
「兎も角、小侯爵の肩書きだけで、諸所の令嬢たちに目を付けられましょうから、一月と経たない内に令夫人の候補者が一ダース位はできるでしょう。」と煽りたてるように言った。この時又も取次ぎの声が聞こえた。
「蛭峰氏及び令夫人がお見えになりました。」
第百五十二 終わり
次(百五十三)
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