gankutu158
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2011. 5.22
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
百五十八、「年金とは幾ら」
尾長屋の主人毛太郎次が珠玉商人を殺したことから、その終(つい)に捕らわれて終身の獄に投ぜられたところまでは春田路の物語により、読者の既に知るところである。しかも今ここに現れて来たところを見れば、彼はどうかして脱獄したのだ。
小公爵は彼に向かい、「お前は牢破りの罪のある暗い身で、俺をゆすろうとはあんまり大胆じゃないか。」
毛;「コレ、弁や、弁、お前だって前科者のくせに、どうしてだか貴族の仲間に潜り込んでいるではないか。洗い立てすれば、俺もお前も五分五分だから、互いに古いことは言いっこ無しにして、牢の中でも時々話し合ったことの有る通り、互いに助け合おうではないか。」
どうしても毛太郎次の方が一段上だ。小侯爵は又黙った。しかし、黙りきりでは無い。一方の手で密かに腰のピストルポケットを探っている。毛太郎次はそれと察して、手早く隠し持っていた包丁を取り出し、「野暮はよせということよ。俺だって素手で来ているのではないのだから。」と言ってその刃を小侯爵の目の前で閃(ひらめ)かせて見せた。そうしてやがて物凄く、「ホホホホ」と笑ってその包丁をポケットに収(おさ)めた。
もう小公爵は彼の意に従う一方である。口に中で「悪人」と呟いて、更に「どうすれば好いんだ。」と聞いた。
毛太郎次;「それはお前の収入次第さ。お前の収入が少しなら俺も少しで我慢するし、お前が多く取れば俺も多く貰わなければ成らない。」
まるで株主みたいな事を言っている。
『しかし、弁、お前はどうしてこう出世した。牢を出てからまだ一月と経っていないじゃないか。本当に感心だよ。何でも俺は昔からそう思っていた。
「この子は智慧が逞しいから、人並みはずれたことをするだろう。」
と、それにしてもコレ弁、どうして出世した。話して聞かせろ。』
小侯爵;「本当の父にめぐり合ったのさ。」
毛太郎次;「エ、父に、そうそうお前はいつも言っていたなあ、何処かに本当の父がいるに違いないから、如何にかして尋ね出して、子を捨てた罪を散々思い知らせてやりたいと。しかし、お前をこう貴族社会に入れてくれるような父なら満更憎くも無いだろう。誰だ。誰だ。その父というのは。」
小侯爵;「イタリアの皮春侯爵だよ」
毛;「大層立派な父だなあ。それではもう、お前の身は生涯食いはぐれの無い事に決まったから、俺に生涯の年金をくれ。俺ももう寄る年だから、仕事をせずに、生涯を楽に暮らしたい。」
小侯爵;「年金をと言っても、何時勘当されるか知れない。お前の様な者がこの通り馬車に相乗りすると分れば直ぐにも勘当されるよ。」
毛;「だから年金をくれというのだ。くれさえすれば、決して相乗りなど要求はしない。お前が勘当されては俺も口が干上がるから。なるたけお前のためを計るよ。エ、弁、おまえが勘当されたらその日限りに止めるという約束で俺に年金を払ってくれ。俺はもう真実悪事は嫌になった。」
小侯爵;「年金とは幾ら」
毛;「そうさ、月に四十円」
と言って賞侯爵の顔を見、その驚かない様子を確かめて、
「そうさ、四十円あれば如何にかこうにか暮らしは付くが、実は五十円くらいは欲しいよ。五十円か六十円有れば」
と段々顔色を見て吊り上げ、
「俺は楽隠居の真似をして、毎朝顔をそってよ、垢の付かない着物を着て、日の暮れから大通りのコーヒー店に行って新聞でも読んで、苦無しに日を送るのだ。俺はもうそれ以上の欲は無い。そうするには少し又臨時の費用も掛かるから月に七十円と思ってくれ。」
四十円が七十円になった。小侯爵はこの上の梯子のぼりを恐れるから直ぐ財布を探って八十円取り出し、「サア、コレが最初1ヶ月分だ。」
毛太郎次;「八十円か、有り難い。有り難い、今のうちはコレで足りる。」
小侯爵;「足りても足りなくてもそのうえは知らないよ。来月から毎月初めに俺の宿に来れば執事から払い渡すことにして置く。」 毛;「エ、執事、随分お前は貴族らしくなったなあ、だけれど、弁、執事とはお前の雇い人ではないか。俺はお前と取引をするのだよ。雇い人には用事は無いよ」
小侯爵;「では俺の手から直々やろう。」
毛:「そうしてくれ、そのうちに又口でも有れば何処かの貴族の家に執事とか家扶とかいうようなものに住み込ませてくれ。」
コレで先ず用事は済んだ。というように彼は馬車の外を見回したが。早やパリの街に入っている。
「オオ、弁、その帽子を俺に貸せ」と言い、小侯爵の頭から帽子を取り、更に御者台にある御者の外套(がいとう)を手早く着て、
「それでは来月又会おう。」
小侯爵;「コレコレ、それを持って行っては困る。」
毛;「ナニ、帽子と外套が無ければ俺は巡査に怪しまれるよ。お前は帽子を取られたといえばそれで済む。御者の外套は新しいのを買ってやれ。」
言い捨てて彼毛太郎次葉ひらりと馬車を降り、早や闇に姿を隠した。後に小公爵は深く感じたように、
「アア、この世の中には、邪魔者の居ない本当の幸福というものは無いと見える。」
呟いてかつため息をついた。
第百五十八 終わり
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