巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu162

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 5.26

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

百六十二、「証拠が有ります」

 若い時の悪事は、年を取るに従って次第に身を責めることになってくる。蛭峰大検事と段倉夫人も、今は若い時の悪事の為、この様な苦しい思いをしてまで密会しなければならないことになったのだ。密会したとしても好い方法が有るとは思われないけれど、密会して相談しなければ、心が落ち着かない。何となく不安だ。

 罪深き男、罪深き女、人の罪を追求するという司法省の大検事官房で、顔と顔を合わせて立った。やがて蛭峰大検事は、用心らしく辺りを見回した。勿論この室に出入りする人がない様に、朝から口実を設けて準備をしている。取次ぎが退けば誰も邪魔する者はいない。しかも蛭峰は入り口の戸に錠を下ろし、念の上にも念を押してそうして夫人の前に立ち返って座に着いた。

 今は昔の互いに夢中であった頃とは違う、美しい他人同士の仲と成って、綺麗に付き合っているだけに、双方少しきまりが悪い思いも有る。けれど、夫人の方はその極まりの悪さよりも昨夜の恐ろしさが先に立ち、震えるかと思われる声で口を開いた。「回り合わせと言うものでしょうか。あんまり不思議では有りませんか。」言葉と共に帽子とベールを取り外した。時はそう暑くも無いのに額に汗が浮いている。

 蛭峰も青い顔で、「ハイ、回り合わせとしては余りに不思議過ぎますよ。昔のことをことごとく思い出さなければならない場合に立ったのですもの。真に貴方のおつらかった事はお察し申します。」 夫人;「顔色を変えてはならない。素振りに表しては成らないと、必死の思いで身を支えていましたけれど。ツイ気絶する事になりました。誰か私の様子を怪しいと見て取ったでしょうか。」

 蛭峰は考えている。
 夫人;「まさか誰も、訳あっての気絶などとは思わないでしょう。思うはずは無いのです。けれどーーー、」
 蛭峰;「イヤ、それが怪しいのです。貴方が正気に返った時、巌窟島伯爵が貴方の顔を見た目の光をご覧なさいましたか。」
 巌窟島伯爵には全く心服している夫人である。「ナニあの方ならば、田舎から出て来たばかりで、別に悪げも無く、又社交界に長く居る人の様に邪推など為さらないと思いますが、もしや貴方の奥方にーーー」

 蛭峰;「イヤ、あの方ならばと、そう安心なさるのが間違いではないだろうかと私は思います。あの別荘を買い取ったのが巌窟島伯爵では有りませんか。売り別荘は沢山有るのに何故伯爵があの別荘を選んだのでしょう。そうして私や貴方をあすこに招いたのも伯爵でしょう。伯爵はエリシー街に本邸が有るのに何故あの辺鄙(へんぴ)な所にわざわざ招いたのでしょう。」

 夫人;「それだから私は回り合わせだと言うのです。回り合わせが恐ろしいのです。」
 蛭峰は承知が出来ない面持ちで、「イヤ、回り合わせなら恐れるに足りませんが、私は回り合わせよりも、もっと恐ろしい事ではないかと気づかいました。」
 夫人;「エ、もっと恐ろしい事とは。」

 蛭峰;「サア、そこです。実に私は納得が行かないから、昨夜から眠らないで考えて明かしました。第一あの伯爵が私をあの別荘に招いた時の素振りから怪しいのですよ。私はオーチウルと聞いた時、出席を断ろうと思いましたのに、上手く言葉を回して断る事が出来ないように仕向けられました。私は自分の嫌だと思うことを断る事ができなかったのはこれが初めてです。実に巌窟島伯爵と言う人は駆け引きの上手い方ですよ。」

 夫人;「それではあの伯爵が、貴方と私のとの昔のことを知っていて。」
 蛭峰;「そうです。もしや知っていて、私と貴方をいじめるような目的のためにしたのではないかと、こう疑わなければ成らないことに成ってきます。」
 夫人;「それは。」
 蛭峰;「あの部屋に限り昔のままに残して置いたり、又あの裏階段を説明した言葉など、どうしても偶然ではありません。」

 夫人;「だから私は恐ろしい回り合わせだと思い、気絶する事になったのです。これが回り合わせでないとすれば、貴方は何で伯爵がその様な事をするという確かな心当たりでも有りますか。」
 満更心当たりの無いはずは無いだろう。三十年来、人に憎まれる検事の職にいて、そうして自分の我意のため、野心のため、人情をも、浮世の義理をもほとんど、踏みにじって来たのだから。しかし、彼は思い当たらないと見え、

 「ハイ、そう思って色々考えましたが、どうしても私の方には心当たりが無いのです。何だかある時は伯爵の顔を、昔見たことも無いでもないような気もしますけれど、確かにそれは迷いです。昔から私と何等の関係もあった人では無いのです。それで私はついに思い定めました。多分貴方のためだろうと。」

 夫人;「エ、私の為」
 蛭峰;「ハイ、何か貴方に対して恋の恨みとか言うようなーーー。」
 夫人は又恐ろしそうに身を震わせてた。もとよりこの夫人の越し方には、人に恋の恨みを受けなければ成らない様な筋合いは沢山有るだろう。二口や三口に止まりそうも無い。しかし、夫人は断言した。「いいえ、決して私の方にはその様な事は有りません。」

 こうなっては更に分らない。双方ともに少しの心当たりも無い。イヤ、有るか知らなけれど、思い出されない。夫人はしばらくして、あたかも嘆願するような語調で、「ですが、蛭峰さん、あの伯爵が悔しい思いとか恨みとか持ったための仕業などとそう恐ろしく考えずに、私の言う通り単に回り合わせと考えて、何とか私に安心させて下さるお言葉は有りませんか。私はなるべく軽く考えて、どうか恐ろしくない様にしたい。出来る事ならすっかり忘れてもしまいたいとこう思いますのに。」

 蛭峰は非常に重々しく、「それは私も同感です。出来る事なら伯爵がわざとこの様な事をするなどとは思わずに、ただ偶然の回り合わせと思ってしまいたいのですが、ここにそう思われない一つの証拠が有ります。ハイ、悲しいかな、伯爵が確かに故意をもって我々を襲っているという争えない確証が有るのです。」
 どの様な確証だろう。夫人はますます顔の色を失うばかりである。イヤ夫人よりも実は蛭峰の方が更に顔色を失っている。

第百六十二 終わり
次(百六十三)

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