巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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gankutu168

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

百六十八、「偽りの動物」

 もし役者が舞台の上で早や変わりするように、普通の人が自由自在に姿を変え、たちまち老人となり、又たちまち小児となるようなことが出来たら、さぞ人を欺くのに便利なことだろう。人を欺くだけでない万事の駆け引きに全て都合が好いだろう。

 それだからいずれの国、いずれの時代にも、多少はこの姿を変えるということが行われる。カツラもあれば付け髭もある。顔を彩る紅白粉も有れば眼を隠す眼鏡も顔を隠す覆面もある。いわば全ての動物のうちで、人間だけがもっとも姿を変えるのに都合が好いような境遇や習慣を持っているので、これがもし、牛馬や犬猫ならば、常にいつでも裸で居て体の全部をむき出しているのだから到底充分に姿を変える手段は無い。

 これにつけても、人間は偽りの動物である。同類同胞をだます事ばかり考えている。その中でもこの姿を変えるという技術が最も進歩しているのがフランスで、又そのフランスでも最も技術が盛んに行われたのは丁度巌窟島伯爵の住んでいた頃である千八百年代の上半期である。その頃のフランスは陰謀の時代といわれ、顔を隠したパーティーさえも行われた。貴婦人でも淑女でも姿を変えるという術を多少は稽古しない者は無く、まして男子にいたっては父子親戚の間にさえ姿を変えて欺き合った話も多い。この様な状態だから取分け巌窟島伯爵のような、大の秘密を持って大の陰謀を抱いていた人は大いにその術を研究し学習したに違いない。

 又実際姿を変えるために用いる材料の製作も余ほど行き届いていた。大検事蛭峰さえも自分で特務巡査に化けるようなことをした。およそこれ等のことについては数多の考証が存しているけれど、ここに詳しく記すには及ばないだろう。

 特務巡査として暮内法師に会ったけれど、蛭峰は十分満足するほどの結果を得ることは出来なかった。巌窟島伯爵が左近という造船者の息子としても、何故オーチウルのあの別荘を買ったり、どうしてその庭にかって私生児が埋められたことを知っているのか、又何故にそれを蛭峰と段倉夫人へ思い出させるような芝居を演じたのか少しも分らない。何でも何らかの因縁でこの身を恨むものには違い無いと思うけれど、マルタの造船者やその息子などに恨まれる覚えは毛ほども無い。

 だから、蛭峰の不安は暮内法師に会って後も、会わない以前と少しも変わらない。イヤ、会わない以前よりもかえって怪しさが深くなったと言っても好い。最早こうなれば、自分が職を報じて以来今までの履歴を全て取り調べ、凡そ自分を恨みそうな人の名前だけを書き抜いて、その中であれかこれかと取り調べるほかは無い。そうだ、そうすれば或いは思い当たる事が出てくるかも知れ無い。こう思って彼は翌日から古い書類を取り調べに掛かった。

 勿論、官に就いて以来三十何年の間、多い日は五件にも十件にも関係し何人何十人の密告者、被嫌疑者、罪人、未決人に接したのだからその書類だけでも容易な嵩(かさ)では無い。文庫からも出れば箪笥からも出る。長持ちにも葛篭(つづら)にもと言う状況だ。ただ取り揃えるだけでも時日が掛かる。中々何時調べるという予定も出来ない。

 しかし、この取調べが、巌窟島伯爵にとっては何よりも恐ろしい。暮内法師に会うとか、柳田卿を問うとかいうようなことは蛭峰が勉めれば勉めるだけ益々伯爵の術中に陥るのだから、伯爵はかえってこれを喜び、蛭峰の愚を嘲(あざけ)る種にしているけれど、蛭峰自身が自分の越し方を取り調べるのに至っては、伯爵の力でどうにもこれを妨げることも出来ない。なおこれだけではない。蛭峰は自分の越し方を取り調べる外に、厳重に警視総監に頼んで、伯爵の越し方を、イタリア、ギリシャ辺りにま問い合わせることにした。

 真に伯爵が、重なる恨みを蛭峰に返したいとならば、余ほど急がなければならない。グズグズしていては先を越される。しかし、伯爵の仕事は、なるべく人の疑いを引かないように、自然の成り行きに任せて、その都度にその成り行きを利用しようと言う工夫も多いのだから、綱つけて引くようには運びにくい。

 丁度蛭峰が先の様な書類を大方取り揃える事ができた日の夕方である。これからその順序を付け、次に取り調べに着手しようと、大体の方略を決めているところに、柳田卿からの返事が来た。これは前から警視総監の名をもって、一名の特務巡査に面会を与えてくれと、卿の寓居へ申し入れて会ったのに対し、卿から総監に返事したのを総監から蛭峰へ回して来たのだ。夜の十時といえば太陽の光を恐れる蛭峰には最も好い時刻だ。彼は直ぐに鏡に向かって姿を変えることに着手した、二、三時間も経ってようやく思うとおりの特務巡査には化ける事が出来た。そうして柳田卿の宿を目指して家を出た。

第百六十八 終わり
次(百六十九)

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