巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu171

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 6.4

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

百七十一、「死」「生」「疑」

 蛭峰の妻は、ついに夫の言葉に従ってこの部屋を去った。蛭峰はその去ったか去らないかには気が付かない様子である。彼はただ自分の写し掛けたその罫紙を見つめている。罫紙の表面には、多くの人の名があって、その一番終わりは、「団友太郎」とある。

 彼の眼はひたすらにこの「団友太郎」の名に注いでいるけれども、特別の意味があって之に注いでいるわけでは無い。ただ写してきた最終の名であるために注ぐのだ。彼はしばらくして呟いた。「俺が大検事になって後に取扱った分は比較的新しいから、まだその中の人が俺に忘れられているだろうと安心して、俺の傍に近寄るはずは無い。たとえ近寄っても俺の方で思い出す。然るにあの巌窟島伯爵にいたってはどうも思い出せ無い。

 何だか昔見たことがある顔のようにも思ったけれど、心に浮ばない。これで見ると大分昔に違い無い。果たして自分が扱った罪人の中だとすれば、どうも大検事時代では無い。その前の検事の時代か、或いはまだ前の検事補時代、そうさ今朝からこう書き抜いたこの中に有るかも知れ無い。或いは更に近くこのページの中に無いとも限らないて。」

 言葉と共に又も「団友太郎」の名の辺を眺めた。
「絶対絶命」とはこの時の巌窟島伯爵の運命である。誰もそう危ないとは気が付かないけれど、ここでもし蛭峰の心機がただ一転すれば、いや、一転しなくても、僅かに微動して、団友太郎の昔の顔をでも思い出したなら、それが巌窟島伯爵の最後であるかも知れない。しかし、良く考えてみるとそう簡単に考え出すはずが無いかも知れ無い。それともあるかも知れ無い。

 何しろ何百と書き連ねた名の中だから、今は特に団友太郎の事をだけ思い出すというきっかけが出てこない。そうだ、今は出てこないけれど、後では出てくるかもしれない。それに又この蛭峰と団友太郎との間柄を考えてみるのに、友太郎の方からいえば、実に終天の恨みを醸してもまだ足りないほどの苦しみを受けているけれど、これを、蛭峰の方から言うと、彼が友太郎の顔を見たのは二十年以上も前で、しかもただ一日である。

 時間にすれば一時間に足るか足りないかである。自分の検事補の部屋に被告人として連れては入り、簡単に取調べただけである。たとえ、その取り調べ方が他の取り調べ方と違っていたにせよ、又その時の取調べには空前絶後とも言うべき一種の事情がまつわっていたにもせよ、その被告の顔を今まで覚えていないのはもっともなことである。ただその事件は生涯忘れられない事情が有って、今でも時々彼の心に浮んでくるかも知れないけれど、それがために友太郎の顔をまで覚えているといえばそれこそかえって怪しむべきである。

 彼は又呟いた。「イヤ、ただこの様に名を書くだけではいけない。名の上に何か記を付けて区別しなければ、そうだ、明らかに死んだ奴は再び現れて来るはずが無いから用は無い。死んだ奴には名の脳得に「死」の字を付け、生きている者には「生」の印を加えて置こう。しかし、死んだと思ってもその実その実生きている奴もある。この様な奴が最も怪しいテ。フム、この様な奴には「疑」の字を付ければ好い。たとえば死んだとなっているけれど、何処で死んだのか分らないとか、或いは所は分っているがその死骸が分らないとか、そうだ、どの様な事でそのような奴が逃れているかも知れない。」

 中々彼の思考は綿密である。こう綿密に部を分けて調べていけば何だか以外に早く分りそうに思われる。しかし彼の思考はここに至って一層綿密になった。「待てよ、巌窟島伯爵の年齢は幾つだ。一寸見れば三十四、五にしか見えないが、暮内法師や柳田卿の言った履歴やその他の事どもから考えてみると、四十くらいだろう。五十には決してなら無い。そうすると俺より年下の奴を調べればよい。

 仮に四十だとすれば、そうだ、俺が検事補の頃調べたのなら、十八、九の少年であったのだ。この割合でこの名前の人達の年齢を区別するのが肝心だ。よろしい、早く検事補時代だけを映し終わって、「生、」「死」「疑」の三つの印とその年齢とを分けて見よう。ナアニ彼奴がどの様に隠したとしても分らないはずがあるものか。これが分らないほどならば俺は蛭峰とは言われない。大検事とは言われない。」

 驚くべきほどの自信である。実に自身の強い者は必ず目的を遂げ果たすというが、その言葉が事実となるのは何時だろう。果たして今夜のうちだろうか。或いは明朝だろうか。兎に角彼はこの決心に従って又残る部分を写し始めた。凡そ二時間の後には早や検事補時代の分を写し終わり、そうしてあの三つの印と年齢とをば初めの方から区別を付けにかかった。けれど、今夜のうちにはその仕事が出来上がらない運命に決まっていたと見え、夜の十一時頃になって、どうしてもこの仕事から手を話さなければ成らないような一椿事が湧いて起こった。その椿事は後に回す。
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 しかし、この蛭峰より外に、蛭峰にも劣らないほど切に伯爵の素性を気にして居た者が一人ある。或いは伯爵にとってはその方が一層恐るべきかも知れ無い。その方が蛭峰よりも先に伯爵の素性を見破るかも知れ無い。或いは既に見破っているのかも知れ無い。それを誰かといえば武之助の母なのだ。野西子爵夫人露子なのだ。昔スペイン村のお露と言われた、見る影も無い漁師の娘であった。そうして団友太郎の許婚者であった。

 この露子夫人が初めて巌窟島伯爵に会った時のただならない様子は既に記した通りである。その後も伯爵のことをのみ気にしていることも読者の知るところであろう。今夜催したパーティーとても、多くの貴紳を招いたけれど、その真の目的は或いはもう一度巌窟島伯爵を招いて詳しく様子を見て取りたいというのにあるのではないだろうか。どうも前後の事情がそのように思われる。けれど、伯爵はそうとも思わない。約束の時間にその屋敷を目指して行った。

 或いは最早伯爵の真の素性見破られるような時節が到来しているのではないだろうか。何しろ伯爵のように名高くなれば、その名高さの増すと共に、右からも左からもその素性を怪しむ人が増してくるようなことはないだろうか。誠に疑えば限りも無いが、その疑いは読むに従い、自然にどっちか分かって行くだろう。

第百七十一 終わり
次(百七十二)

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