巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu172

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 6.5

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

百七十二、「二十余年前の彼は」

 露子夫人を会主とする子爵野西家のパーティーは招かれた人達が非常な名誉と心得て我先に押しかけたところである。巌窟島伯爵がこれに臨んだのは、遅くもなかったけれど、早や客が来揃った後であった。
 もし伯爵の知っているだけ、この家の主人野西次郎の素性が一般に知れているなら、誰もこのパーティーにそう急いでは行かないであろう。

 二十余年前の彼は漁師村の若者であった。魚売りであった。恋のためには人を密告するような卑劣な男であった。今はそれが子爵という栄誉の上に立って、陸軍の中将である。特にギリシャの戦争から帰って以来は大金持ちの一人に数えられる。実に三拍子揃った勢力化であるのだ。誠に変われば変わるものと伯爵は多少の感慨を催しながらその家に入った。が、見れば自分が第一に会いたいと目指して来た蛭峰大検事の姿が見えない。

 彼とても私の身の挙動には目を離さないほどにするはずなのに、今夜来ないのは、何か深いわけがあるためではないだろうかと、さすが寸刻の油断も無い鋭敏な心に早や不審の念を起し、直ぐに一方の窓下に居る蛭峰夫人の元に行き、「今夜蛭峰氏は如何なされました。」と聞いた。

 夫人は頭痛の為というように命じられては来たけれど、夫の勉強を誇りたくも有る。「貴方だから申しますが、二十余年前初めて職に就いた時からの書類を集めて綿密に取り調べて居りますよ。何でも世間を驚かせるような大事件が始まりかけているだろうと思います。いよいよその事件が法廷に現れることにも成れば、第一に貴方へ、私から傍聴券をお送り申します。」
 伯爵はただ黙礼をしてここを去った。蛭峰が何のために二十余年前からの書類を調べるのか大抵は見当がついたようだ。

 それのためだかどうかは知らないが、これから伯爵は何となく気掛かりの体で全ての挙動が沈みがちに見えた。それを見て第一に慰めに来たのが森江大尉で、次に来たのが当家の子息武之助である。 大尉はしきりに伯爵の好む馬の事を語り出で近々共に遠乗りを為さらないかなどと進めていたが、武之助の方は方面を変え、「伯爵、貴方と私との旧知己がいよいよこのパリーに帰って来ることになりました。」

 伯爵;「エ、旧知己とは」
 武之助;「私が貴方を尊敬するのと同じくらい矢張り貴方を尊敬している毛脛安雄ですよ。彼の手紙が今朝着きましたが、彼は手紙より一日遅れてローマを出発すると申しております。」
又蛭峰夫人もここに来た。

 「ハイ、安雄さんは私共にもその通りの手紙をお寄越しでした。パリーへ着けば直ぐに私共の華子と結婚の式を挙げますから、その時は伯爵も是非ご臨席を願います。」
 この言葉を聞いて青くなったのは森江大尉である。彼は座にも耐えられない状態で伯爵を捨てて去った。真に華子と安雄との婚礼がそうまで差し迫ったとは彼にとって世界絶滅の期が近づいてきたようなものだろう。伯爵も大方は森江大尉の事情を察したらしかった。

 このようなことで益々伯爵は陰気になったがそのうちに何番かのダンスも有り又食事も始まった。来客一同は興に乗って、殊更伯爵に目を留める人も居ないように見えたが、ただ今夜の会主露子夫人だけはそうではなかった。初めて伯爵が入って来たそもそもの初めからこの夫人の眼は、それとはなしに伯爵の身に注いでいたが、食事の半ば頃となると、あたかも耐えかねたことがあるように我が子武之助を一方に呼び、声を潜めて、「そなたは気が付いたかも知れないが、今夜伯爵は何の珍味にも箸をお取り為されない様子だが。」

 武之助;「それはお腹が満ちているためでしょう。」
 露子;「この様なパーティーに来るのにお腹を満たして来ると言う方は無いものだ。そなたは何んとも思わないでしょうが、女と言う者は詰まらないことでも気にかかるものだから、どうかそなたが伯爵へ、何か召し上がるように勧めて見ておくれ。」

 武之助;「何か貴方はそのように気になりますか。」
 露子;「ナニ、伯爵は前からこの家で物を食べるのを避けていらっしゃるようだもの。私の気の迷いかも知れないけれど、敵の家で物を食えば神の怒りに触れるなどと言う宗教もあるし、この家へ来るお客がこの家のものを食べないとは」

 武之助;「ナニ、その様な事が有りますものか。伯爵は初めてパリーにお出での時も私と共にテーブルに着いたでは有りませんか。」
 露子;「イイエ、貴方の家と父次郎の家とは同じ家でも棟が違います。お宗旨で言うのは敵と同じ棟の下で塩を食べるなと言うのです。」
 武之助は軽く笑い、「それでは伯爵がお父さんを敵と思うのですね。その様な事がありますものか。」
 露子;「それでも先ず勧めてみて送れ」
 武之助;「勧めたとてお腹がくちければ誰だって食べません。しかし、勧めてみましょう。」言い捨てて武之助は立ち去った。

 なおも露子夫人はこちらから伯爵の方ばかり眺めていると、やがて武之助が、一皿の珍味を特に伯爵の前に置いて勧めたようである。けれど、伯爵が厳重に拒んでいる様子も見えた。露子夫人は絶望のため息と共に、「アア、この疑いが間違いであれば好いのに。」と非常に悲しそうに呟いて、立っている足が震えるようによろめいた。そのうちに食事も終わり客の何人かは冴え渡る月を踏んで散歩する心と見えて打ち群れて庭に出た。

 ここぞと露子夫人は心を固めた様子で、静かに伯爵の傍により、「サア、伯爵、御一緒に庭は出ましょう。どうか私の手をお引きください。」」と言って伯爵の腕を求めた。伯爵は不意に恐るべき者にでも出会ったように、驚いてこちらを向き、少しの間夫人の顔を眺めた末、ようやく心を静めることが出来たと見え、「ハイ」とだけ短く答えて腕を与えた。

 このようにすがり、このようにすがらせたのは二十年前の夢である。すがる手の心持。すがらせる腕の感じは、昔に比べてどの様だろう。二人ともに一種名状の出来ない《言葉に言い表せない》恐れに震える身を震えまいとしてただそれだけが必死の思いであった。

第百七十二 終わり
次(百七十三)

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