巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu173

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 6.6

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

百七十三、「盆栽架」

 「この疑いが間違いであれば好いのに」と露子夫人が心配するその疑いの何であるかは知らないけれど、兎も角巌窟島伯爵がこの家で何一つ食べない事から起こった疑いに違いない。夫人が強いて伯爵の腕を求め、それにすがって震え震え伯爵を庭の表に誘い出したのもまったくその疑いを晴らしたい為なのだろう。

 縋(すが)るというのは名だけで、実は巌窟島伯爵の腕に、ただ露子夫人の指先が一寸触(さわ)っているに過ぎない。二十余年の昔、手を引き手を引かれたこととは大層な違いと言うもの。しかしこれだけが両人の精一杯であるのだ。この上深くすがる事もすがらせる事もできない。

 やがて二人は盆栽架《棚》の方に行った。ここには他の客も来ているから勿論密会と言うような状態では無い。ただどちらから言葉を発するかと双方共に待つ様子でほとんど果てしがなく見えたが、ようやく夫人の方が口を開いた。

 「秋は月もさえ果物なども熟しまして、春よりも好い気候ですねえ。」異を言うべき言葉ではないから、伯爵はただ「ハイ」と答えた。確かに厳重な用心の様子が見える。
 夫人;「御覧なさい。この熟した秋葡萄が、月影に、まるで地に書いた絵のようでは有りませんか。」
 伯爵が「いかにも」と答えて地を見る間に、夫人は早やくも露の垂るような秋葡萄の一房を、垂れた蔓(つる)から摘み取って、

 「貴方のお愛しなさる東方の果物には及ばないかもしれませんが、これはわざわざアルジェリアから取り寄せた種ですから、この国には余り類が無いと言い、皆人様がお褒めになります。一つ召し上がって品定めをお願いします。」と言って伯爵に差し出した。

 来客の身にとってこれほど手厚いもてなしが又と有ろうか。主人自ら珍重する盆栽の果物を摘み、手ずから差し出して、しかも夫人自らはイヤと言わせない様に早やその一粒をついばんでいる。誰でもこの場合にこれを断ることは出来ない。

 伯爵は静かに顔を上げた。照り添う月にその色の青い事は葡萄の葉にも勝るかと疑われる。誠に伯爵の身にとっては命の瀬戸際とも言うほどの試験である。しかし、伯爵はついに言った。「イイエ、夫人、私は葡萄は食べません。」

 もし日頃の伯爵ならば同じ断るにも少しは愛嬌のある言い回しをするだろうが、今は心に言葉を飾るだけの余裕が無いのだ。夫人はこの言葉に泣き出さんばかりにため息をついたが、直ぐ又品を変えて「ではこの桃を召し上がって戴きましょう。」と言って隣に熟していた桃の実を摘もうとした。伯爵は慌てるように、「イイエ夫人、私は果物は食べません。」

 夫人が「オヤ、これもですか。」と言った声は全く泣き声を強いて圧したような声であった。そうして更に、「本当に貴方は、私の折角の願いを」と、半ば恨みのように、又半ば笑い紛らせるように、言い繕(つく)ろおうとしたけれど、後の句が出なかった。夫人の辛さも全く伯爵の辛さに劣らないのだ。

 すこしの間無言とはなって、又他のほうに歩を転じたが、夫人はなおもあの葡萄の房を、一方の手に持っている。そうして程合いを見て、今度は雑話のように、「伯爵、貴方は大層旅もされ、又苦労も為さったように聞きますが、」
 伯爵;「ハイ、随分悲しい事を経て来ました。」
 夫人;「そうして、今ではもう、喜ばしい事ばかりの御身分にお成りなされてーーー。」
 伯爵;「ハイ、誰も私の嘆くのを聞かないから、喜ばしいと言うのでしょう。」

 何んとなくにがい意味が籠もっている。
 夫人;「ですが貴方はお一人ですか。奥方は」
 伯爵は驚いたように、「エ、奥方、私にそのような者は有りません。」
 夫人;「でも、劇場でへは何時もギリシャ風の美しい御婦人をお連れだと聞きますが。」
 伯爵;「あれは私がトルコで買い取った女奴隷です。余りかわいそうな身の上だと思いましたので。」

 夫人は問えるだけ問うて見る気になったらしい。「では、一人も親身の方がお有りなさらないのですか。」
 伯爵;「ハイ、一人も」
 夫人;「父上も、母御も」
 伯爵;「今は有りません」
 夫人;「お子様も、姉妹兄弟も」
 伯爵;「ハイ、何にも」
 夫人;「それでまあ、何を楽しみにこの世をお過ごし為されます。」

 何を楽しみに、アア何を楽しみに、楽しみのために生きている身では無い。ただ、恨みと言う一念の、晴らさなければならないものが有るために、人も分らないこの暗い年月を送っているのだ。
 我が名ではない名を称え、身分ではない身分を作り、ほとんど人とさえも言えない人となって、人に怪しまれ疑われながらの艱難辛苦、そもそも誰のために起こったことぞ。

 今問う人は、ことの起こりとなったその人である。これを思うと、前から心を鉄石に鍛え固め、いかなる情にも動かされないと覚悟している伯爵も異様な感慨が高ぶって、ほとんど自分で制することが出来無い。
 「ハイ夫人、この様な独り者となったのも自分で求めてのことでは有りません。かって、この女こそはと思う一少女もありましたけれど、―――。」と心の底を語るような語を発した。
 夫人は恐ろしい幽霊にでも会ったように、一足後ろに退いた。

第百七十三 終わり
次(百七十四)

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