巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu175

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

百七十五、『蛭峰家』(二)

 蛭峰に「お母さん」と呼ばれるこの老婦人は何者だろう。外でも無い、蛭峰の先妻礼子の母である米良田伯爵夫人である。
 この老夫人は夫伯爵と共に、久しい前にパリーの本邸を立ち、マルセーユの別荘に行き、何時帰るとも決まっていなかったのに、突然ここに現れたから、蛭峰の驚くのは無理は無い。

 「エお母さん、どうしてここへ、お父さんもご一緒ですか。」
 この老夫人はがばと蛭峰の前に泣き伏し、「聞いておくれ重輔、お父さんは、―――私の夫は、―――あの米良田伯は、パリーに来る途中の宿屋で亡くなりました。」
 蛭峰は目を見張った。「エエ、米良田伯がお亡くなりに、それはどうして。」

 老夫人は涙と共に、「ハイ数日前から少し勝(すぐ)れないご様子であったけれど、貴方から華子の婚礼が近くなったとの手紙が来たため、その婚礼の間に合うようにと、私と共にマルセイユを出たが、途中の宿屋で昼食をした後、前からの持薬をお飲みになったところ、間もなく眠気を催したと仰り、少しの間と言ってお休みなさったが、そのまま目が覚めないことになりました。」

 蛭峰;「そうして医者には」
 老夫人;「ハイ、直ぐに土地の医者を招いて見せました。多分、脳卒中だろうと診断はしましたけれど、もう事切れた後であった。勿論葬式はこのパリーでしなければならないので、御遺骸は棺に収め、後から従者が運んで来ます。多分明後日あたりに着くだろう。私は葬式の用意もあり、かつは貴方の娘華子が伯の相続人と決まっているから直ぐに華子にも会わなければならず、夜を日についで馬車を急がせ、遺骸より先にこの通り帰って来ました。サア、華子は何処に居る。華子をここに呼んでおくれ。」

 実に思いもしない事変である。外の事のためなら到底書類の取調べを止めない蛭峰だけれど、これには止めないと言う訳には行かない。「少しお待ちください。お母さん。華子は母と共に、一寸外出した所ですから、直ぐに私が呼んで来ます。」
 まさかこの悲しみに中で、パーティに行っているとは言う事は出来ない。

 老夫人は少し聞きとがめるように、「エ、母と一緒に、華子の母は亡くなった礼子です。継母は決して母では有りません。」
 この中でさえこの様に異存を唱える所を見れば、どれほどこの牢夫人と蛭峰の今の妻と不和合かと言う事も推し量られる。
 蛭峰は言葉の端を、言い争う場合でないから、無言で書類をことごとく引き出しに入れ、錠を降ろし、そうして馬車を命じて自分で野西家に迎えに行った。

 野西家で華子がどの様に驚いたかは既に前回の武之助の言葉に見えた通りである。間もなく華子と継母と蛭峰と、三人一緒の馬車で帰って来たが、老夫人はそうでなくても衰えた体をもって生涯に又とない不幸を受け、その上、三昼夜を休息せずに急いで帰京したため、この家に着いて早や気も緩んだと見え、蛭峰の居間で使用人の持って来た飲み物にさえ手を触れず、長椅子の上で居眠りをしている。

 そうして三人の物音を聞き、目を開いて飛び起きたけれど、最早疲れに勝つ気力が無い。ただ華子の手を取って、早く婚礼してひ孫の顔を見せておくれ。」と言い、しばらくして又、「そなたの夫になる毛脛安雄と言う人は昔暗殺せられた毛脛将軍の息子だと言うから、万一そなたの死んだ後で直ぐに後妻を迎えるような不実な紳士ではないだろう。」とひどく蛭峰に当て付けた語を吐くばかりだ。

 蛭峰の妻は非常に気分が悪い様子だけれど、露(あらわ)に立腹する場合ではないと見たか、穏やかに、「お母さん、貴方は不意の御不幸に、あんまり体をお使い過ぎになりました。大凡の様子は私も蛭峰から聞いて知りましたが、さぞ御愁傷《嘆き悲しむ》なことでしょう。この上心配をお続けなさっては、お体に障(さわ)りますから、今夜は直ぐにお休みなさい。又明朝色々伺いましょう。」と言って手を取った。

 老夫人は又忌々(いまいま)しいと言う様に目を開き、「何、私の世話は孫の華子がするから好いよ。華子、そなたには色々話がある。サア、私を他の部屋に連れて行っておくれ。」

 華子は蛭峰から目配せされ、そのまま老夫人の手を取って、これを二階の寝室に連れて行った。老夫人は身を支える力もない状態で、直ぐにベッドに就(つ)いたけれど、余り疲れすぎた神経には本当の眠りは来ない。やや長い時間華子の手を握ったまま、「早く安雄と婚礼してこの老婆を安心させておくれ。」とこのことばかりほとんどうわ言のように繰り返した。

 華子は「安雄と婚礼」と言われるごとに、身を切られるよりも辛い。けれど、この方さえこれほど望まれるからは、最早逃れる道は無いことかと、どうしたら好いか分からなくなり、逆らいもせずに聞いているうち、どうやら老夫人が本当に眠ったらしく見えたのでここを去った。

 この翌朝である。再び華子がこの寝室に入って見ると、老夫人は容易ならない容体である。昨夜はただ疲れの為とばかり思えたのに、今朝はそうでは無い。熱があって全くの病人となり、中々起き出す様子も無い。華子はその顔に顔を寄せて、「お祖母さん、何か召し上がりたくは有りませんか。」

 老夫人は病体に似ない決然たる声で、「外の人には言われないけれど、そなただから言うが、私はもう何にも食べない。食べたら毒殺されます。」
 華子は根もないうわ言のように思い、「そのような事が有りますものか。」
 
 老夫人;「イイエ、私は夕べ、夢だろうと思ったが夢ではなかった。誰だかこの部屋に忍び入り、枕もとのコップをどうかして立ち去ったよ。しばらくして私はそのコップで水を飲んだが、その時から喉(のど)が焦げ付くような気持ちがします。何でもコップに毒を垂らして立ち去ったのに違いない。けれど、この様な事は誰にも話さないで居ておくれ。」

 あんまり恐ろしい言葉だから華子は顔の色も変わったけれど、又病気のための根無しごとと思いなし、そのまま部屋を出て医師を迎えた。

第百七十五 終わり
次(百七十六)

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